クリエイターが影響を受けた一枚 vol.10 #一枚の写真からはじまる誤読と妄想。
編集思考とアートディレクションを武器に、企業やサービスの新たな価値を創出しているデザインコンサルティングファームDynamite Brothers Syndicate。日々、クリエイティブの世界で活躍するアートディレクターやデザイナーが影響を受けた写真家を紹介します。第十回は、クリエイティブディレクター高木裕次が「一枚の写真からはじまる誤読と妄想。」をテーマにお話します。
株式会社ダイナマイト・ブラザーズ・シンジケート(DBS)
東京港区にあるデザインコンサルティングファーム。
ブランディング、デザインコンサルティング、ロゴマーク開発など幅広いフィールドで事業展開中。
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THEME :一枚の写真からはじまる誤読と妄想。
ChatGPTも広まり、Twitter上ではその使い方やプロンプトのノウハウが頻繁に共有されています。このようなウェブメディアの記事にも、おそらくChatGPTによって書かれた文章が増えているかもしれません。それは写真やイラストなどのビジュアルも同様。
そんな中で今回取り上げるのは、もうお気づきかもしれません。『Sony World Photography Awards』で入賞したボリス・エルダグセン氏の写真です。
この写真の趣旨は、過去にも何度も議論されてきた「どこまでが写真で、どこからが写真ではないのか」という問いかけでした。以下、個人的な見解となりますので、誤りや曖昧な点が多々あると思いますが、ご了承ください。
ではまず、ボリス・エルダグセン氏の見解です。
これは元々フォトグラフィではありません。フォトグラフィはラテン語のPhoto(光)+Graphie(書くこと)に由来します。この作品はAIがプロンプトによって生成した画像であり、フォトグラフィの定義からは外れています。私の知人の写真家 Christian VincesはAI生成された写真風の画像をプロンプトグラフィ(PROMPTOGRAPHY)と名づけました。今回の作品もまさにそれです。
「写真とは光である」という言葉をよく聞きますが、確かにそう思います。
僕が好きな写真家の一人に、横田大輔さんという方がいます。
この方はフィルムであること。つまりは写真の物質性に着目して、何も写っていないけど、フィルムを感光させる(つまりは光を捕まえること)である以上、それは写真である。という作品であると勝手に認識しております。
では、そんな横田大輔さんの作品は本当に写真なのでしょうか?もちろん写真です。とここでは言わせてください。
彼の作品は日本ではもちろん、世界中の様々な賞を受賞し、写真表現として認められています。彼は権威ある「木村伊兵衛写真賞」も受賞しており、異論を唱えるのは難しい状況です。
じゃあ、フィルムであれば写真とするなら、このボリス・エルダグセン氏の1枚は、フィルムに感光させていたら、写真だったのでしょうか? そんな新しい疑問が浮上します。
おそらく彼自身はそれを写真とは認めないでしょう。
なぜなら、フィルムに焼き付けることによって写真とされる考え方は、非常に古い考え方だからです。
例えば、iPhoneで撮った写真は写真ではないのでしょうか?写真フォルダに入っていて、一生プリントされることのない写真は写真ではないのでしょうか?
いや、そんなことはありません。それらも間違いなく写真です。現代の著名なフォトグラファーたちでさえ、すべての作品を紙にプリントしているわけではありません。SNS上で完結する写真もたくさん存在します。僕自身もファッションの仕事で撮影した写真がオンスクリーンで終わることは珍しくありません。
当然ながらフィルムを使用しなくても写真であるという結論です。
さらに、考察を進めます。
写真には「決定的な瞬間」という言葉があり、それが「写真」であるという考え方もありますよね。写真とは、シャッターを押すその瞬間を切り取るものであるという考え方。
しかし、トーマス・ルフは目に見えない宇宙の惑星に色をつけて、その光がまだ地球には届いていない未来を「写真」として表現しました。カメラで切り取った瞬間、写真は全て過去になるなんてセンチメンタルな気分も、トーマス・ルフのロマンが全否定しています。
また、ファウンドフォトと呼ばれるジャンルでは、知らない誰かがいつ撮ったのかもわからない写真を集め、意図を持って再編集する行為が写真表現として確立されています。
さらに、マン・レイのようなアーティストによる「フォトグラム」や「ソラリゼーション」も、一般的に写真として認識されています。
世界にはさまざまな写真表現が存在し、そのすべてが「光」という要素を含んでいます。そのため、ボリス・エルダグセン氏が言う通り、光を捉えることが写真の基本的な要件となりそうです。
話は少し脱線しますが、私はこのニュースを聞いたとき、マルセル・デュシャンを思い出しました。彼はあるコンクールにただの便器をアートとして出品しましたが、それはアートとは認められませんでした。しかし、後にその便器「泉」は現代アートにおいて重要な変革点となり、新たな価値とコンセプトを生み出し、アートのコンテクストに大きな意味を持つものとなりました。
僕はボリス氏にも同様に、全く新しい「写真」の価値や意味づけがあるのではないかと期待していました。しかし、彼は保守的な立場をとり、これは写真ではないと断言しました。
正直に言うと、「ですよね。これAIで作ったけれど写真です。」と言ってほしかった。そうすれば、ボリス氏の意図通り、この写真が本当に写真なのか、それとも写真ではないのかという議論が盛り上がったと思うのです。
次に、日本語で「写真」と表現されるものについてのお話です。
日本語で写真とは「真を写す」と書きます。ここでは前述した英語の「フォトグラフィ」にあるラテン語のPhoto(光)+Graphie(書くこと)の意味が含まれていません。
そこで僕の頭に思い浮かぶのは、杉本博司さんです。氏いわく「最後の写真家」です。
杉本さんの写真作品で有名なものは海景、ジオラマ、劇場でしょうか。どれも、コンセプチュアルすぎるくらいコンセプチュアル。
詳しく正しい解説はAIさんに任せます。僕的には真(実)である事をたった1枚のペラっとした紙に強引にひきずりこんだのがシアター。ジオラマも同様なのですが、ジオラマは全く逆に真(実)を疑うというか、写真に真(実)を写さないことへの試みで、嘘を真実よりリアルにした感じ。
さらに決定的瞬間を否定して見せたのが海景とシアター。いや、ジオラマも決定的瞬間を装っていますね。
とりとめのない文章になってしまいました…
つまり、僕が言いたいことは、問題のボリス・エルダグセン氏の1枚は、真実では無いわけです。それはAIだから。いまこの瞬間、2023年での常識では言えば。
しかし、「最後の写真家」は証明してるのです。嘘でも写真だし、決定的瞬間じゃ無くても写真だと。
いやいや、そんな小難しく考えなくたって、嘘の写真なんてそこらじゅうに溢れていました。マッチングアプリもレストランのメニュー写真(特にハンバーガーとか)も嘘つきですよね。僕が仕事としている広告写真も、雑誌の写真も、かなり嘘をついています。
どうやら、真を写すのが写真だという話も、嘘だったようです。
失礼しました。
でも、こんなふうに「どこまでが写真で、どこからが写真ではないか」を考えることは、自分の写真表現の可能性を広げたり、自分の表現の正しさやオリジナリティを再確認するきっけや、気づきになるのではないかもしれません。
最後に。付け加えさせてください。このコラムを読み返していて気がつきました。
問題のボリス・エルダグセン氏の1枚。タイトルが「偽りの記憶 : 電気屋」でした… うまいタイトルで。
高木 裕次 / Yuji Takagi
Creative Director/ Dynamite Brothers Syndicate