僕が写真を必要としている理由 #写真家放談 |蓮井 元彦
PHOTOGRAPHER PROFILE
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蓮井 元彦
写真家。1983年生まれ、東京都出身。2003年渡英、Central Saint Martins Art and Design にてファウンデーションコースを履修した後、London College of Communicationにて写真を専攻。卒業後、2007年帰国。以降、東京を拠点に活動する。2013 年、4年間の日常生活を記録したスナップ写真からなる写真集『Personal Matters』をイギリスの出版社 Bemojake より出版する。その後、『Deep Blue – Serena Motola』などの私家版小冊子の発表を経て 2019 年、続編の『Personal Matters Volume II』 (Bemojake)を出版。2020 年には写真集『for tomorrow』(Libro Arte)、2021 年には『写真はこころ』(Printed Union)、2023年に『VIATOR SWELL』(Libro Arte)を出版する。コミッションワークにおいては雑誌や広告のほか、2018 年に吉岡里帆写真集『so long』(集英社)を撮影。G20 大阪サミット 2019 では、京都・東福寺で行われたティーセレモニーに際し制作された図録の撮影を手がける。
@motohiko_hasui http://motohikohasui.com/写真を撮るようになったのは高校2年の頃だった。僕は工業高専の電気工学科に通っていた。子供の頃から手を使って物を組み立てたりするのが好きだった僕は、受験のギリギリまで工業の道へ進むかデザインの道へ進むかで迷ったのだが、実際に組み立てる工程が好きだったという理由から、工業高専を選んだ。
2年生くらいになってプログラミングなどの授業が始まるとプログラミングには正解が必ずあるということ──今思えば、突き詰めた先にはきっと表現の世界があったのだろうけど──に違和感を感じて、写真部に入った。高校生の頃に初めて作った写真集はクラスメートやバイト先の知り合いの写真をまとめたものだった。
それからずっと写真を撮り続けている。
写真は難しい。
写真の良し悪しというのは、正直、今でもわからない。そこには目には見えない何かがある。または、言葉にはならないと言った方が適切かもしれない。
視覚芸術に分類される写真は、文字通り全て視覚的に見えているはずなのだけれど、写真を観ること、また撮ることにはどうもそれ以上の勘のようなものがつきまとっているように思えてならない。
写真を観ているようでいて、実は写真ではなく、写真に写っているものを観ている。だから観る人の生い立ちや人生経験によって左右される。
例えば猫の写真を観た時、人は昔住んでいた実家の近所に似たような猫がいた光景を思い出すかもしれないし、姉が猫に噛まれた恐い記憶を思い出すかもしれない。
写真に写っている「猫」はその「猫」であると同時に、他の「猫」を想起させるきっかけとしての記号としても働く。それは写真において避けては通れない、いわば本質のようなものだ。
写真を撮る時に視覚的に判断をしないようにする理由
それを前提に考えた時、写真の良し悪しと言うものはとても判断するのが難しい。それは構図が良いとか、質感がどうとかそういったフォトグラフィックなベクトルの話ではないからだ。
だから、写真を撮る時にあまり視覚的に判断をしないようにしている。写真は視覚でのみ感じることができる筈なので、これはとても不思議なことなのだけれど。
ポートレートで例えるならわかりやすい。人物写真においてフォトグラフィックな情報はあまり重要ではないと考えている。ここでのフォトグラフィックというのは作画的という意味においてだ。
作画という要素は現実世界が写真になった途端に不可避的に発生するのだけど、僕はそこに疑問を持っている。なぜなら相手が人間である以上、作画には限界があるからだ。
人間を止めておくことはできない。人の表情は1秒毎に変化していくし、変化には必ず理由がある。しかしその理由を言語化することはできない。その表情や身体の微妙な動きから、より直感的に、より動物的に感じ取れるものに僕は興味を持っている。人物写真が上手な写真家は、いわば魔法使いのようなものだと思う。
僕にとって良い写真は、正直な写真かもしれない。
静物写真の場合、気をつけていないとどうしても作画的になってしまう時がある。静物は人物と異なって変化のスパンが長いのだ。街の変化を感じられるのは数年単位だったり、植物などは数時間であったりする。
そんな場合でも、僕は自分の心境の変化に敏感になるようにしている。自分の心境は表情と同じく刻一刻と変化する。対象のものに向かい合うときは自分の心境に正直でいるように心がけている。
嘘をついても写真には写ってしまうし、写真を見る側の人間が必ず嘘を見抜いてしまう。それだけ人間の目は厳しい。
写真の良し悪しについて言うと、僕にとっての良い写真は、正直な写真かもしれない。美しい世界を見せようとする意図は全くない。世界が美しいかどうかに興味があるわけではなくて、自分が属する世界そのものに興味がある。心境や置かれた状況、また写真を観る人によって、自分が属する世界は変わるからだ。
記録ではなく、記憶として
写真は記録ではなく記憶として捉えている。
これは僕が撮る写真の一貫したテーマのようなものなのだが、記憶というものは本当に興味深い。親しみ、哀愁、愛着、それらは僕たちにとって大切な感情で、記憶がなければ感じられない。写真を楽しむということは記憶という概念と経験の上に成り立っていると感じる。
9月12日より開催する半山ギャラリーでの展示「そこにいる」はポートレートを中心に構成した。僕は人に惹かれて写真を撮っている。街の写真もよく撮るが、それは街も人を表していると思うからだ。植物の写真も撮る。植物も街には欠かせないもので、人の住む家の周辺に置かれたものなどを見ると、人を見る以上に人を感じることがある。
時に無機的で殺伐とした都会の風景には自由気ままに咲いた花や青々とした草木に妙に惹かれることがある。それも全てそこに人がいて人の生活があってのことだ。ポートレートは自分の写真にとって欠かせないものだが、今まで行なった展示や制作した写真集では一連の風景や静物写真の中に象徴的にポートレートを配置する構成をとってきた。
今回は点数ほど多くないものの、ポートレートを中心に構成した。それはもともとクラスメートや身の回りの人々の写真を撮ることから始めた自分をもう一度見つめ直そうと思ったからだ。街を歩いていて不意に出会った人や、保険屋の営業マンや近所の知り合いを撮らせてもらった写真だ。
写真という装置は現在の自分と社会との間に存在している。他者の写真を撮る時に大切だと感じていることは自分自身に素直になることだと思っている。
生い立ち、境遇、時には性別も異なる他者を理解することは到底できることではないと思っているが、自分を理解することは努力すればできるかもしれない。自分自身と向き合うことができれば他者とも向き合うことができるのではないか、と信じている。
写真を始めた10代の頃から今まで経験してきたことをもとに現在(いま)思っていることを話してきたが、やはり写真は難しい。「これはこうで、あれはああで」というふうにはいかないし、これが正解だということも無い。
正解があるとすれば、自分にとっての正解を見つけることではないか。言うのは簡単だが、そんなに簡単なことではない。それで良いと思う。見つからないときは見つからないという写真を撮っていれば良い。そして、うまくやる必要はない。僕が大事だと思うことはずっと探している、それを表現しているということだ。
それ以外の近道はないと思うし、簡単ではないからこそ面白い。矛盾に満ちているこの世界で、何を、どう表現できるのか。それがきっと僕が写真を必要としている理由なのではないかと思う。