「空(くう)」が生み出す「有」と、美しさの分解 ~後編~ #写真家放談 |原田教正
「美しいもの」という視点で考察した前編。どれもがあくまで私の主観に過ぎない。誰かの何か、あるいはヒントになり得ただろうか。それを知ることはできないが、私にとっての「美しい」は、「綺麗」や「華やか」のような一般化された概念とは少し違う何かであることは感じていただのではないだろうか。
前編:「空(くう)」が生み出す「有」と、美しさの分解 ~前編~ #写真家放談
後編は「美しいこと」に視点を少し変えて、これまでの日常的な体験を振り返りながら、オムニバス形式で記したいと思う。情景を想像してもらいながら読んでもらいたい。
・不自然な時間
時々、ただじっと人や物と向かい合い、言葉を交わすことも表情を読み合うこともせず、ただ流れる時間だけを愉しむような、そんな瞬間を欲することがある。そもそも写真を撮るために誰かや何かと真向かいに向き合うことは当然であり必然なのだが、一般的な日常においてはとても不自然なことのようにも思えてならない。そこに無言が加われば尚のこと不自然である。だが、写真を鑑賞する行為は、この不自然さそのものであり、とても自然なことだとも言える。じっと見つめ合う無言の時間は、視覚情報を超えて漠然とした気配や姿だけを感じ取るようになり、終いには互いに生じた距離だけを残して、あらゆる複雑性が簡略化されていくことが分かる。もし時間という概念を通して美しさを測れるとしたら、私はその無言で向き合う不自然であり自然な時間こそが、もっとも美しい瞬間なのではないかと思う。
・観察と観測
写真家の故・山崎博との思い出。当時、武蔵野美術大学で写真専攻だった私は山崎ゼミに在籍していた。当時は、山崎さんが生前唱えていた「計画と偶然」(写真を徹底して計画したものにのみ偶然が訪れる)という考えに触発され、その前段にある、あらゆる事象を観察・観測的に捉えようとする写真のあり方を模索していた頃だった。ある日の授業終わりに教室に残るよう告げた山崎さんは、本棚の箱から乾いた椿の花びらを一枚とりだし、まだその花びらが生きていた頃からを延々と記録したポラロイドを見せてくれた。そこには、まだ色鮮やかだった花びらが次第に色を失い、縮れていく様子が記録されていた。じっと見入っていると、「どれが美しいと思いますか」と尋ねられた。生と死が拮抗しながら、やがてそのバランスが死に近寄っていく。そんな変遷を辿りながら、寸前が美しく思えて手に取ると、山崎さんは何も言わず、ただ頷いたのだった。
・モノ派
1960年代後半から70年代初頭にかけて10名ほどの作家が、天然物や人工物などのいわゆる「モノ」を、なるべく素材そのままの状態で作品として提示するという一連の動向があった。そこでは「モノ」は「物体・物質」にとどまらず、「事柄」や「状況」を含むものとして解釈され、再構築されていった。私がそのことを知った2010年代初頭は、既に半世紀近い時が経とうかという頃である。写真へのアプローチにも大きな影響を受けたと思う。私にとって「美しさ」という概念そのものが、人の作為ではなく、もっと純粋な存在そのものに由来するという考え方も、ここに根ざしているのだろう。
・湖畔の窓
ある湖畔でのできごと。大きな埋め込み窓から湖と山だけが見えるという宿の部屋に案内された。その日は大雨で、窓の向こうにあるはずの景色は薄灰色の霧に埋もれていた。静まり返った部屋には雨粒の音だけ響いている。係の人が「せっかくのお部屋、あいにくのお天気ですね。」と言い残し出ていくと、電気を消し、ベッドに腰掛けた。それから随分と長い時間を窓の向こうが青白くなるのを私はじっと眺めていた。
ほとんど色の無い景色と部屋は「空っぽ」を連想させたが、かえって私の存在だけが際立つようでもあった。誰も知らない遠い景色のなかにいるような、アノニマスな安心感。そのことが、見えるはずの景色よりも贅沢で美しいものに思えた。そして「空」の中に「有」が存在することを体感的に意識した最初の出来事だったように思う。
・並べること
遡ってみると、小さい頃から「並べる」ことが好きだった。拾った石や枝、ウルトラマンのフィギュア、なんでも組み合わせて並べていた。今でも家で暇になれば何か手にとっては並べている。美しい「状態」をさがして、いちど始めてしまうと朝でも夜中でも本来はやるべきこともそっちのけで、黙々と永遠と続けてしまう。並べる棚との相性もあれば、並び合う物同士の相性もあるので、要素を分解しだすと実に複雑だ。はじめはただの癖でも、この複雑性を理解することは、並べるという行為が空間を定義し、対象物との間に「有」という関係性を計画することに他ならないのかもしれない。
・物撮り
真っ白い空間に、そっと物を置く。色々な角度から見て、さっと決めた場所から撮る。それから近くに寄ってさらにじっくりと観察してみる。向こうも気恥ずかしいだろうが、こちらも図々しくて申し訳ない気持ちになる。もちろんその逆もあって「綺麗でしょう」なんて態度でいられると「思い上がりでしょう」と言い返したくもなる。そんな丁々発止なやり取りと緊張感があって、物撮りというのは私にとって無言のポートレートのようだ。
森羅万象、あらゆることに魂が有るとしたなら、作り手の人柄などひとまず置いておくとしても、物にも強い意思が存在していると思う。「美しい」というのは、形だけではなくて、こうした擬人的なところにも潜んでいるのではないだろうか。
こうして取り止めもなく書いていると、自分は写真という行為の中で生きているのだと改めて思う。日々の出来事の全ては思考の糸口であり、写真は思考の答え合わせでもある。美しさについて問いかけて10年を経たいま、ようやく少し感じるところがあるとするなら、美しいと呼ばれるもののほとんどは、慎ましやかであり清らかだが、素直ばかりではないということ。日常のその時々で巡らせた思考と体験の集積の中から、断片的な美しさを拾い集めて自分なりの答えを見つけようとしているのかもしれない。これからも、それは延々と続いていくことだろう。