「空(くう)」が生み出す「有」と、美しさの分解 ~前編~ #写真家放談 |原田教正

「美しい」には答えがない。多面的で抽象的なその言葉の正体は、どれだけ時代が進もうと、いまなお言語化し得ない要素が多く含まれている。それでも、「美しさとはなにか」と問い続けることを、あるいは、その答えのない曖昧さを丁寧に分解し観察し続けることを、写真や日常のさまざまな出来事を介し、この10年ほど続けてきた。

そもそもの問いかけとして、写真に美しさは必要なのだろうか。これは、商業的には多かれ少なかれ求められるものだが、そこと切り離して考えるなら、写真という媒体の本質に美しさが必須だとは、まったく思わない。個人の価値観にもよるし、寧ろステレオタイプな考えにより写真家自身やその周辺が、写真の中に偶像の美しさを創り出すことや、美しさが介在する写真に固執するなら、かえって虚しいことのようにも思える。

私の場合は、美しい写真を求めているというより、写真を介して美しさの定義や意味そのものを自他に問うていると言うほうが正しい。写真の持つ精神性にアクセスを試みたり、あるいは被写体と自身の間に生じる出来事や、関係性の変化を見つめているにすぎない。

その意味で、おそらく美しさは、第一に自身のなかに存在しているし、第二に眼差しの矛先と、対象との間に見出すことができるだろう。そうした自他への問いかけの連続性が、私の写真の根幹なのだと思う。

ただ、たった10年の問いかけで明確な答えを得たとは到底思えない。ここでは、結論のない論説より、ふとした時や移動の際中に自身に問うては答えてメモしたこと、本や人との出会いから得たことなどを抜粋し、あえて主観的なまま、思考の断片を箇条書きに整理しようと思う。長くなるので、それらを前編では「美しいもの」後編では「美しいこと」と切り分けてみた。

ところどころ内容が重複するものある。直接的に美しさを問うてはいないものもある。それは、視点を変えながらも似たような要素抽出や答えに辿り着いた軌跡として、あえて載せているのでご理解いただきたい。私だけではない誰かにとって、「美しい」という漠としたことへの問いかけや、写真という行為そのものを読解する糸口となることを願って。

・「空っぽ」という容器

「美しい」という言葉について考えるとき、いつも頭の中に「空っぽ」という言葉を思い浮かべる。これは、原 研哉の著書『白』や『白百』(中央公論新)の中でエンプティネスについて述べられている一節に起因している。写真においては「美しい」というものを、漠然としたままにせず、どのようなありさまなのかと定義してみることは重要だろう。そう考え始めた時、スタジオのような真っ白な空間を真っ先に思い浮かべたことが始まりだった。

「空」は「無」とは異なり空間や受け皿の存在が示唆されている。写真という媒体は被写体と同時に背後の空間を定義することを思えば、必然的に、言葉遊びのようだが「有」という言葉に辿り着く。この連想ゲームは、逆打ちでは成立しづらい。整理すると、「空」≒「無」⇔「有」である。美しいというもの・ことは、の存在を、果たして私たちはどのように写真において定義し得るのだろうか。

・白い服

私はよく白い服を着ている。気がつくと上から下まで真っ白だ。静かな撮影スタジオで物や人を撮影するとき、ひとりで考え事をしなければならないとき、誰かと会うときなど、何かと対峙する際に、無意識的に白い服を着てしまう自分がいる。潔く、空っぽで、無味無臭のような自分にならないと、雑念や先入観が生じてしまうようである。

例えば、派手派手しい服を身に纏って花器や皿は選べないし、誰かの素の表情を撮ることもできないような気がする。派手な装いをした私と、私の意識が先に立ってしまい、空っぽとは程遠く、気が散漫になってしまう自分がいる。白い服は、なるべく空っぽであろうとするための作業服なのだと思う。それは、私の我の強さの裏返しなのかもしれない。

・素材

素材について考える。薄い硝子は繊細で美しい印象があるし、分厚い鉄の塊と聞けば重く無骨なイメージがある。石と言えばひんやり冷たそうだ。人は成長の過程で素材から連想される質量や厚さ、そこから受け取る基本的なイメージを培い、あらかじめ持ち合わせていると思う。それらは美しさという漠然と一般化された概念の形成にも一役買っているようである。

ただ、より深遠に美しさを問うていくと、大抵はこのイメージに当てはまらない。例えばこの石とガラスは偶然にも同一に見えるし、それぞれの素材がもつ表情は意外性に富んでいる。そして時に種類の区別を曖昧にするほど、似通っている。ぱっとした印象に当てはまらない違和感の正体を探ることは、物の姿形の所以を探ることであり、それは「有」を考えることにも通じているのではないだろうか。

・透明とフロスト

透明なコップに水を入れると、透き通った水と硝子に光が屈折して美しいなと思う。だが透明なのになぜか存在を強く感じさせられる。一方、フロスト硝子は不透明だが故にフォルムや質量が露わになるのに、エッジは消えて存在自体が曖昧となり、ある種の匿名性が生まれるようである。 どちらも論理矛盾を感じさせるのだが、そこに美しさや愛おしさ、素材の不思議が潜んでいるように思えてならない。私は個人的に、フロストガラスや不透明なアクリルの持つ、周りの物体や空気と溶け合い融合していくような柔らかさが、優しくて好きである。

・白いもの

白い服の話とは違い、白いものの話である。美しさという問いかけにおいて、白いものほど私に多くを教え語りかけてくるものは、他には生け花くらいだろうか。行為ではなく物とするなら、白いものを見続けることは訓練に他ならない。例えば、白い皿にはフランスの古物もあれば、朝鮮の陶磁器やそれを由来とする現代作家のもの、現代的なプロダクトに至るまで、幅も広ければ奥も深い。そして世界中に数多あるが故に半端なものも数知れない。

白いというだけで、布も陶器も生地がどれほどのものか露呈するし、それに応じてどのような形が与えられているのか、どこに美意識があるのかまで、探ることができる。白いだけでなんとなく美しく見えるからこそ、白い物と向き合う時はいつも緊張している。喋れない相手にも、白さに騙されないし、甘えてもさせないと、眼光鋭く、睨みつけるのである。

・余白と文字

最後に「余白と文字」について。タイポグラファーでもデザイナーでもない私が語るのは不躾だけが、フォントは音色に、字組は哲学に似ているような気がする。そして文字と余白の関係には、言葉の密度や語りの速度を感じる。どれを間違えても、ちぐはぐとして美しくない。そこに写真が配置されればより複雑性が増す。

そこで私は、写真と被写体との関係性や美しさの定義について考えるとき、あえて文字と余白の関係性にすべてを置き換えてみる。すると、自分の写真が言語的にはどのような視点とニュアンスを持ち、どのようなトーンであろうとしているのか、その輪郭を掴むことができる。美しいものを、どうしたら美しく、その空間に置けるのだろうか。そこに私はどのように介在するのだろうか。そうした問いかけのヒントになり得るのである。それを手がかりに視点を改め、距離を見つめ直す。こうしたところにも「空」≒「無」⇔「有」の関係は潜んでいるのかもしれない。

ここまでが前編である。このようなことばかりを延々と考えている。果たして写真を撮っているのか、それとも写真に投影しているのか、その両方なのだろう。後編は「美しいこと」にテーマを移して並べてみる。写真家 山崎博との印象深い会話の回想や、ある湖畔でのできごとなど、これまでの出来事を振り返りながら「美しい」という深遠な問いかけについて、考えたいと思う。