ただ、舞鶴に恩返しがしたい。写真と振り返る、「PLAYBACK FES」開催の道のり
2023年から京都府・舞鶴市で開催されている、京都北部最大級の音楽フェス「PLAYBACK FES.」。
「PLAYBACK=もう一度再生、再会する」をテーマに掲げる本フェスの実行委員は、京都府・舞鶴市の音楽を愛する有志で構成されている。

「音楽の力で舞鶴を活気づけたいという思いが、立ち上げの原動力となった」と語るのは、実行委員長を務める日本海精錬の代表・金村峰士。2024年春、金村と写真家・武井宏員が出会い、武井は自らが愛する“写真”で、金村の愛する“音楽”を記録に残した。
本記事では、武井が撮影したフェスや舞鶴の写真とともに、金村が「PLAYBACK FES.」を立ち上げるまでの道のりを振り返る。
知識も経験もない。あるのは、恩返ししたい情熱だけだった
ーー「PLAYBACK FES.」を立ち上げたきっかけについて教えてください。
祖父から引き継いだ会社が困難を極め、「死んでしまおうかな」と思っていたとき、FMラジオで流れた矢沢永吉さんの歌に心を打たれました。60歳を超えた矢沢さんがこんな素晴らしい曲を作ることができるのに、まだ30代の自分は何をしているのだろうと、自分の闘志に火がついた瞬間でしたね。
実は、それまで矢沢さんの曲をあまり聴いたことがなかったんです(笑)。それでも心に響くものがあって。まさに「音楽に救われた瞬間」でした。
その後、会社が軌道に乗り始め、ふと自分の状況を振り返ったときに、「自分を育ててくれた街に恩返しをしたい」という気持ちが湧き上がりました。そして、矢沢さんの曲に奮い立たされたあの記憶が蘇り、「音楽フェスを開催する」という決断にたどり着いたんです。

PLAYBACK FES. 2024
ーー日本海精錬はおじいさまが創業されたそうですね。金村さんは、いつ頃入社されたのでしょうか。
17歳のときに入社しました。今は46歳なので、もう30年以上もこの会社に勤務しています。
祖父はおそらく「儲かるから」という理由でこの会社を始めたんです。でも、周囲はここまで大きくなるとは思っていなかったようで……。私も子どもの頃は、そのすごさを全く理解していませんでした。
祖父にはよく「みんなは分かっていないけど、この会社は宝なんだよ」と言われましたね。父も「こんなに素晴らしい会社なのに、どうして俺の息子は分かっていないんだろう」とよくぼやいていました(笑)。
今はおじいちゃんがいたときよりも会社は大きくなっています。私が工場長だったときに、今ある会社を大きくするのではなく、新たな会社を育てるような感覚で会社を変えていったんです。

金村峰士(日本海精錬 代表取締役社長 /「PLAYBACK FES.」実行委員長)
たとえば、製造設備を全自動化するなど、「辛い仕事を辛く感じないようにしよう」と、お金を惜しまずに設備投資を行いました。設備を導入するまでは、社員たちは何が起きているのか実感できていないようでしたが、私は必ずいい方向に進むと信じて進めました。
なぜなら、若い頃から文献を読みながら実験を重ねてきたからです。設備投資も、最初は小規模なテストを行い、うまくいくことが分かっていたので、やるべきだと確信していました。もちろん、大規模でテストしたことがなかったので、ある意味賭けに出ていた部分もありましたが(笑)。
ーーそこから代表取締役になり、辛い境遇のときに矢沢永吉さんの曲に出会ったとのことですが、音楽に救われた経験から音楽フェスの開催を志すというのは、すごいですね。
音楽フェスを開催するにあたって、会社のノウハウは直接的には活かせませんし、純粋に「舞鶴に恩返しがしたい」という気持ちだけでしたね。
アーティストと二人三脚で挑んだ、人生初のフェス開催
ーーフェスの開催における知識がない中で、どのように準備を進めていったのでしょうか。
きっかけは「UVER world」のTAKUYA∞でした。彼とは、知人の紹介で知り合ったのですが、出会って5回目くらいに、ようやく心を許してくれたと感じた瞬間があったんです。
その日は、TAKUYA∞といろいろと深い話をしていました。その中で、音楽フェスをやりたいという話を伝えたところ、彼がとても悲しそうな顔をした気がしたんです。「そのために俺に近づいたのか」みたいな表情で。それを見たとき、せっかく仲良くなったのに、こんなことで心が離れてしまうんだなと、寂しく感じて。気落ちしたまま家に帰りました。
すると、TAKUYA∞からLINEが届いていたんです。「お前が言ったことが本当なら、俺とお前は気が合うと思うし、お前のことをめちゃくちゃ好きだ」と。

ーーそんなドラマみたいなお話があるんですね!
私も本当に驚きました。もちろん本当だと伝えたら、「じゃあ、お前のことを本当の親友だと思うことにする。俺は親友の生まれ育った街を見てみたいから、舞鶴に行っていいか?」って連絡がきたんです。それで、TAKUYA∞が舞鶴に来てくれることになりました。2日間、舞鶴をまわり、おいしいものを食べましたね。

舞鶴の風景
TAKUYA∞が帰った後に、SNSを見ていると、彼が舞鶴に来たことが噂になっていました。それは、UVER worldの会員制のブログに「舞鶴のことを好きになった。親友がいるこの街で歌いたい」といった内容を書いてくれていたからでした。
その後、LINEで「何かあったら言ってくれ」とメッセージが来て。そこから、イベント会社に話をして、仲間を集めて、本格的にフェスの準備を始めることになったんです。
ーー出演者はどのようにキャスティングしたのでしょうか?
もちろん、TAKUYA∞にも協力してもらいました。WANIMAや清水翔太さんといったアーティストに声をかけていただいたり。
イベンターの方々も含めて、みなさん本当に真剣に取り組んでくれましたね。

SUPER BEAVERなど、フェスには名だたるアーティストが出演する
知人には、「親友ってだけでTAKUYA∞は音楽フェスをやらないよ。友達に頼まれたことを全部やるのかって言ったらやらないでしょ。よっぽど心が打たれたんだと思うよ」と言われました。私の情熱が届いたようで、心から嬉しかったですね。
ーー音楽フェスを開催して、周りの人も驚いていたんじゃないですか?
そうですね。知り合いの石川涼さん(株式会社せーの 代表取締役社長)に、音楽フェスを開催すると伝えたときは、「嘘をつくな」と言われました(笑)。私のことを、口だけで行動に移さないタイプだと思ったみたいです。
でも、実際に音楽フェスを開催した後には、「本当にやったんだ」と感心してくれて。そこで初めて、私の覚悟や熱意が伝わったんだなと感じました。
2024年に開催した「PLAYBACK FES.」は、2日間で25,000人を動員するほどの規模感になり、あのときの決意を実現できたことに、心から嬉しさと誇りを感じましたね。

ーー最後に、金村さんが舞鶴を思う理由を教えてください。
この街で、元気をなくした人たちをたくさん見てきました。かつては、道の端から端まで人があふれ、商店街は歩けないほど賑わっていたのに、今ではすっかり寂しくなってしまって。
それでも、私の記憶の中で舞鶴は今でもキラキラと輝いているんです。子どもの頃に見ていたあの舞鶴の活気を、もう一度取り戻せたらーーそんな思いで、今は毎年フェスを開催しています。
私自身、会社を立て直したり、ノウハウのない中でフェスを立ち上げたりと、逆境の中でさまざまなことを実現してきました。「本当はできる」と信じて、音楽の力でこの街の輝きを取り戻していきたいと強く思っています。
▼information
「PLAYBACK FES.」来年も開催決定!
PLAYBACK FES. 2025
【日時】2025年4月19日(土)・20日(日) ※時間未定
【会場】MAIZURU P.B. Harbor Park(第3埠頭)
【住所】京都府舞鶴市字西小字西町114番地
【主催】PLAYBACK FES.2025 実行委員会
【協力】京都府/舞鶴市/舞鶴ミュージックコミッション
【URL】PLAYBACK FES.2025