スケートカルチャーへの情熱から始まった、平野太呂の写真家人生 #写真家放談

カルチャー誌やファッション誌の中心に活躍する写真家・平野太呂さんの名が一躍知れ渡ったのは、自身最初の写真集『POOL』を出したときでした。スケーターたちの滑り場になっていたアメリカ西海岸のプールを撮り続けた平野さんは、「被写体の背景や奥にあるストーリーを知って、はじめて自分の作品になる」と語ります。そんな彼の原点にあるのが、一見写真とは無関係にも思えるスケートカルチャー。スケートボードと真剣に向き合った平野さんだからこそ切り取れる世界とは、いったいどのような景色なのか。学生時代から現在までのストーリーに沿って、お話を伺いました。

『POOL』 出版:リトルモア

スケボーも写真も、はじまりは好奇心だった

——平野さんからキャリアのお話を伺うとなると、やはり「スケートボード(以下スケボー)」は切り離せないテーマだと思っています。スケボーをやり始めたのはいつ頃だったんですか?

中学1年生くらいのときですね。幡ヶ谷に「サーカスサーカス」という自転車屋があって、最初はBMXという自転車を目当てによく通っていたんです。でもあるとき、お店に置いてあるスケートボード雑誌を手に取って眺めていたら、巻末に載っていたスケートボードショップの広告が目に留まって。奇抜なグラフィックのスケボーがずらっと並んでいるのがかっこよくて、心を掴まれました。

そこから、仲良しの友人5,6人でスケボーにはまっていきましたね。もともと一緒にBMXで遊んでいた友人たちです。スケボーのビデオテープをみんなで割り勘して買って、家で見ながら研究するっていうのが楽しかった。コマ送りしながら「ジーンズから出てるあのチェーンはなんだろう」「財布だ! バイク屋に売ってるらしいぞ!」みたいに盛り上がっていました。アーミーパンツとか、ハーレーダビットソンの財布とか、周りで身に着けている人はいなかったので、当時は一つひとつが刺激的でした。

——スケボーそのものだけでなく、付随するカルチャーにも当時から惹かれていたんですね。

まだインターネットも普及してない時代だったから、情報を得るためにはビデオや雑誌を見るしかありませんでしたが、スケボーについて知りたい一心で調べていました。ただ当時、国内から出ているスケボーの情報ってほとんどなかったんです。雑誌やビデオはほぼ海外から出されたものだったので、辞書を引きながらインタビュー記事を読んだりしていました。「憧れのアイツが何を考えてるのか知りたい」という情熱があったからできたことですね。

少し話は飛んでしまいますが、スケボーのユースカルチャーをもっと理解したいと思って、英語を学べる大学への進学も視野に入れていました。結局、写真を学ぶために武蔵野美術大学に進学したんですけど。

——カメラを持ち始めたのは高校からですか?

チェキや「写ルンです」で撮る素人写真が流行っていたという時代背景もあって、高校2,3年生のときに一眼レフを買いました。友人のお父さんがカメラマンだったので写真について教えてもらったり、いろんなフィルターを試してみて高校の暗室でプリントしたり。カメラを楽しみながら自分なりに学んでいました。
正直、どんな気持ちで写真を撮り始めたのかハッキリとは覚えていないんですが、高校を卒業したら離れ離れになってしまう仲間たちを、在学中に撮っておきたいと思ったのかな。小中高一貫校だったので、付き合いが長い分つながりも深かったんですよね。もともと後ろ向きな性格なので、過ぎ去っていく日々がさみしいという感覚があったことは覚えています。

平野太呂さんの作品
『I HEVEN’T SEEN HIM』 出版:sign by DESCENDANT

スケボーへの情熱が引き寄せた、強烈な出会い

——大学卒業後は講談社で働かれていたんですよね。

そうです。写真についての実践的なことは、講談社の写真スタジオでアシスタントをしていた3年間で身に着けました。今はカリキュラムも変わっているかもしれませんが、大学での学びは座学が中心だったので、商業写真としてのテクニックを学べたのは社会人になってからでした。

そして本格的な写真を撮れるようになるにつれて、プライベートでもいろいろと試してみたくなりました。「もしかして『THRASHER(USAを代表するスケートボード専門誌)』みたいな、かっこいいスケボーの写真が撮れるんじゃないか」と思って、休日など、空いてる時間にトリックをやってる友達を撮っていました。

——スケボー専門誌のお仕事もされていたと伺いました。趣味で撮っていたスケボーの写真とも関係があるんでしょうか?

まさに関係しています。実は当時もまだ日本のスケートボード専門誌は盛り上がっていなくて、クオリティの高い雑誌が存在していませんでした。せっかく上手な日本人スケーターも出てきているのにもったいないと思ったし、もっとスケボーのメディアシーンを底上げしたいって気持ちも生まれてきました。

そんなことを考えていた矢先、ラッキーなことにスケボーの専門誌を立ち上げるという話が入ってきたんです。スケボーの世界って横のつながりが強いから、どこかから僕の話が流れていたのかもしれません。「やりたいです」ってすぐに連絡して、撮影に入らせてもらうようになりました。25,6歳の頃だから若手でしたけど、編集部でスケボーのことをいちばん知っているのが僕だったので、いろいろ任せてもらえましたね。講談社のアシスタントの仕事をこなしつつ、ときどきスケボーの取材でサンフランシスコへ撮影に行って、記事作るという働き方を5年くらい続けていました。

——自分で好きなことをやっていたら仕事に繋がった……。現代の副業的な考え方を先取りしていますね。フォトグラファーという立ち位置からだと、スケボーの見え方にも変化がありそうです。

テクニックだけじゃなくて、スケートカルチャーへの関心がさらに高まりましたね。僕はマーク・ゴンザレス(愛称ゴンズ)っていうスケーターがすごく好きなんですけど、彼は絵や詩を手がけているアーティストでもあるんですね。そういう、スケーターがスケート以外の部分で取り入れているカルチャーも追いかけるようになりました。

カルチャーに目覚めたきっかけのひとつになるエピソードがあるんですが、1997年に、ゴンズがはじめて東京で展覧会を開いたことがあったんです。どうしても会いたくて、スケートをしている友人を撮影した写真をプリントして、クリアファイルに入れて持っていきました。

でも実際に行って会えたのは、ゴンズではなく、キュレーターのアーロン・ローズというおじさんでした。「ゴンズに会いに来たのになあ」と思いつつも、せっかくなので持ってきた写真をアーロンに見せました。彼は写真を見たあと、「こういうのじゃなくて、スケーターの友人が描いた絵とかミックスして、ホッチキスで閉じて持ってきて」と言いながら宿泊しているホテルのマッチをくれたんです。

——住所を伝えるためにマッチを渡すってかっこいい! 指定されたものは実際に持って行ったんですか?

アーロンが言っていたのは、いわゆるZINEですよね。3日後に帰るって言われたから、急いで仲間を集めて作りました。彼が泊まっているホテルに持っていって、受付の人に渡してもらって。そしたら3ヵ月後にゴンズから、たくさんの落書きとともに「僕も仲間に入れてよ」と書かれた手紙が入った封筒が届きました。そこから何回か、ゴンズとアーロンとやりとりするようになりましたね。

だからアーロンにはとても感謝してます。ZINEを教えてくれた人ですから。そういった強烈な経験もあって、スケートカルチャーにのめり込んでいきました。トリックを魅せる写真を撮るということの次は、カルチャーを知ることが面白く感じたんです。 

平野太呂さんの作品
『I HEVEN’T SEEN HIM』 出版:sign by DESCENDANT

景色の奥にある背景を知って初めて「自分の作品」になる

——写真集『POOL』を作り始めたのも、スケートカルチャーをインプットした影響が大きかったからですか?

きっかけになったのは、『リラックス』というカルチャー雑誌での仕事でした。うしろのほうのページで連載を担当させてもらっていたことがあったので、アメリカに行って、フリースタイルをテーマにネタを5本くらい取ってきますって提案したんです。そのうちのテーマのひとつとして考えていたのが「空っぽのプール」でした。

編集を担当してくれていた岡本仁さんが、実際に撮ってきたプールの写真を気に入ってくれて、巻頭の別枠で使ってくれたんです。それがすごく嬉しくて、雑誌では使わなかった写真でZINEを作って、また岡本さんに見せました。「僕はこのテーマにグッときているから、写真集を作りたいです」と言って。そこから写真展を開いて、カタログとして写真集『POOL』を作りました。さらに、最終的に「リトルモア」という出版社に持ち込んで、本を流通してもらうことが実現したんです。

——アーロンにZINEを持って行った話といい、『POOL』の出版に至るまでの話といい、行動力がすごいです。そもそも、アメリカではスケーターたちが空っぽのプールですべっているという知識を、いつ頃から持っていたんですか?

そのこと自体は、スケボーを始めた頃から知っていました。スケートビデオには必ずそのシーンが入っていたので。当時は古臭いスケボーのやり方だと思っていたので、早送りして飛ばしていましたけどね。

でも改めてカルチャーとして捉えなおすと、日本にはない、アメリカ独自のスタイルだと思い始めたんです。アメリカのプールって底が丸くなってるけど、日本のプールは四角いので物理的にすべることができないんですよ。

——なるほど。実際にプールを撮影してみてどうでしたか?

いざ目にすると、まずその景色に魅了されましたね。さらに、空っぽのプールができるまでの背景を知ることで、よりテーマとして魅力的だと感じました。空っぽのプールって、郊外の砂漠地域で住宅地を造った時に併設されたプールが多いんです。そこで住民の高齢化とか、維持費がかかるとか、いろんなきっかけで住民が出ていくと、一気に治安が悪くなってプールに水を張る余裕がなくなる。そこに目をつけたのがスケーターだったんですね。他にも色んな経緯があって、詳しく話せばもっと長くなるんですが、とにかく、ひとつの景色からアメリカの社会問題まで見えてくるというのが興味深かったです。

平野太呂さんの作品
『POOL』 出版:リトルモア

——好奇心旺盛な平野さんらしいモチベーションですね。

最初の作品集は、絶対にスケボーのストーリーにしたいと思いつつ、でも、スケーターしか喜ばないものは嫌だなという感覚も同時にありました。スケーターじゃない人、カルチャーの背景を知らない人、そういう人たちにも見てもらえるような作品にしたかった。そこで何か引っかかって、背景を知ってもらえるきっかけになればいいなと考えていました。

僕自身、ただ面白い景色だけを撮っていても満足できないんですよね。被写体の背景や、奥にあるストーリーを知って、はじめて「自分の作品です」って言える気がしていて。その両方が補完されたのが『POOL』でした。

「誰もやっていないことをやる」 スケートカルチャーが与えた影響

——『POOL』を刊行されたあとは、2016年に『Los Angeles Car Club』と『The Kings』を出版されました。10年ほど期間が空いていますね。

『POOL』を出したあとは、スケボーやファッション、カルチャー系の写真を撮影する仕事をひたすらしていました。仕事でアメリカに行く機会が結構あって、そのタイミングで少しずつ撮り溜めていた写真をまとめたのが『Los Angeles Car Club』です。アメリカの空港から街へ向かうまでの道中、横を走っている車を何となく撮ったのが始まりでした。

「スケボーと関係ないなぁ」と思いながらも、アメリカの自由な雰囲気や、現地の生活感が伝わってくるのが好きで。写真集にしようと決めてから、2回ほど車を撮るためだけに自費でアメリカへ行って完成しました。

平野太呂さんの作品
『Los Angeles Car Club』 出版:私家版

——『The Kings』も同じような経緯ですか?

『The Kings』は、『POOL』の撮影でアメリカに行ったときに出会った方がきっかけでした。プールを撮るために、空き家だと思って忍び込んだ一軒家には住民がいて。そこの家主が、エルビス・ プレスリーっぽかったんです。先のとがった革靴にジャージ、リーゼントが崩れた髪形。郊外の田舎で生活している人が、今もエルビスの栄光の日々を頼りに暮らしているんだなあと思うと、なんだかストーリーを感じて……。 

そこからずっと気になっていたので調べ続けているうちに、エルビスの命日である8月16日にメンフィスという街に行けば、エルビスのものまねをしている人がたくさんいるということがわかりました。メンフィスはエルビスが亡くなった邸宅がある場所なんですよ。そのタイミングに合わせて4日間かけて、エルビスのそっくりさんを撮り続けました。写真集に載せている写真は厳選しているけど、30~40人は撮ったんじゃないかな。

平野太呂さんの作品
『The Kings』 出版:ELVIS PRESS

——それにしても、平野さんが選ぶテーマはかなりマニアックです(笑)

「誰もやっていないことをやる」っていうのは、自分のなかでひとつの基準になっています。これについてはスケートカルチャーの影響を受けている気がするんですが、スケーターって、人と同じであることを徹底的に嫌うんです。だから、たとえば「あいつがここであの技をやったなら、自分はもっとすごい技をここでやってやる」みたいな発想を持ちます。

もうひとつ、ロバート・フランクという写真家から受けた影響もあります。彼はスイスからの移民で、アメリカ人をテーマにした『The Americans』という写真集を出しています。外からの視点、つまりスイス人だからこそ抱く「アメリカへの違和感」を作品に昇華しているのが面白いなと思いました。「空っぽのプール」も「エルビスのそっくりさん」も、アメリカ人からすると見慣れた光景だから、誰も「写真集にしよう」とは思わなかったんじゃないかなと考えています。日本人だからこそ面白がれるもの、かつ、誰も気づいていないような魅力を引き出したいです。

アウトプットのイメージ次第で、写真家としてのスタイルが決まる

——最近は何か新しい取り組みをされていますか?

写真集ではないんですが、僕の声かけで釣りの同人誌を作っています。スケボーにハマる前に夢中になっていたのが、実は釣りなんですよ。小学4年生から中学生までは、よく父とヘラブナ釣りに行っていました。一昨年、父が亡くなったことをきっかけに改めて釣りが気になり出して、釣り好きのライターやデザイナーの仲間を集めて『OFF THE HOOK』と名付けた同人誌を作り始めました。

平野太呂さんの作品
『OFF THE HOOK』

釣りをしているときって、ひとりじゃないですか。その時間に何を考えているのかを言葉にする機会ってないけど、文章にしてみたらどういうストーリーが広がっているのか、みんなの頭の中を知りたくて作り始めました。だから、写真ではなく、文章がメインです。釣りを表現するのに写真というアウトプットはピンとこなかったし、これは仕事ではなく完全に趣味ですから。

平野太呂さんの作品
『OFF THE HOOK』

——写真以外にも表現方法をたくさん持っているからこそ、逆説的に「写真」の価値を、より理解できそうです。

僕は、写真を本や冊子という形にすることがいちばん好きです。父の影響で、本に囲まれた環境で育ったことも関係しているかもしれません。さっきお話したような、被写体のストーリーや背景を伝えるためには、写真が何枚も並んでいる必要があると考えているんです。一枚一枚の写真に対して「これが決定的に好き」みたいな感覚ではなく、塊として見てしまう癖があります。

写真家を志している人に知っていてほしいのは、どういうアウトプットにするかでまったく違う作家になるということです。本にするのか、一枚にメッセージを込めたいのか、展示という空間で表現したいのか。それによって撮り方やスタイルも変わってくると思います。

——平野さんにとっては、「本」という形がベストだと。

僕にとって「撮る」という行為は、「立ち止まって見る」ということなんですよね。知って終わり、ではなくて写真として残すことで、改めて自分のなかに取り込めるというか。そこから自分のなかで考えて、熟成して、うまく嚙み合ったときにやっと動き出せる。だから、ひとつの作品を出すのにも時間がかかるんですけど、そういう性格なんだと思います。

■Interviewer / Writer

竹本萌瑛子(たけもこ)
1996年生まれ。株式会社アマヤドリにて広告制作・SNS運用・メディア運用などの業務に従事しつつ、複業でライターやモデルとしても活動している。

Twitter:@moeko_takemo
Instagram:@moeko_takemoto

■Editor

中村洋太
1987年、横須賀出身。海外添乗員と旅行情報誌の編集者を経て、フリーライターに。これまで自転車で世界1万キロを旅し、朝日新聞デジタルなどでエッセイを執筆。現在はプロライターを育成する活動もしている。

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