撮りはじめた、あの頃。 vol.2 齋藤陽道〜後編〜

現在、第一線で活躍する写真家たち。その誰しもに必ずある、写真を撮り始めたばかりの頃の写真。あの写真家が駆け出しの時に見ていたものはなんだったのか、そして変わったこと、変わらないこととは?

前編に引き続き、齋藤陽道さんにデビュー写真集である『感動』の中から、特に印象深いと語る5つの作品を振り返ってもらい、撮影を通して得た気づきがその後の人生や写真にどのような影響を与えたのか、当時の想いとともに語ってもらった。

>前編はこちらから

PROFILE

齋藤 陽道

PROFILE

齋藤 陽道

1983年、東京都生まれ。写真家。都立石神井ろう学校卒業。2020年から熊本県在住。
2010年、写真新世紀優秀賞(佐内正史選)。2013年、ワタリウム美術館にて新鋭写真家として異例の大型個展を開催。2014年、日本写真協会新人賞受賞。写真集に『感動』、続編の『感動、』(赤々舎)。
著書に『育児まんが日記 せかいはことば』(ナナロク社)、『異なり記念日』(医学書院・シリーズケアをひらく、第73回毎日出版文化賞企画部門受賞)、『声めぐり』(晶文社)、『日本国憲法』(港の人)がある。

@saitoharumichi 別のタブで開く URLリンクのアイコン http://www.saitoharumichi.com/ 別のタブで開く

Vol.2 齋藤陽道〜後編〜

“触れる”ことも声である

齋藤陽道-4

この写真は「ドッグレッグス」という、僕も参加していた障害者プロレス団体での試合の一幕です。

障害者プロレスというのは、いろんな障害のある人がリングに立って戦うというもので、プロレスという名前がついているものの、実際は蹴り殴りありの総合格闘技ルールです。

写真の彼は元々相撲部で、けいこの時の事故で胸から下が動かなくなってしまったという経緯があります。彼と闘う時は僕も相手に合わせて手足を後ろに縛って拘束するというスタイルでした。

まともに動けない状態でどうやって闘うかというと、殴る蹴るもできないため、おのずと頭突きになります。彼は相撲部だったため、パッチギには慣れていて、50回以上の全力の頭突きをした末に僕は気を失って負けたんですね。顔はもうボコボコでした(笑)。その後リングの上で対戦相手だった彼を撮影した一枚です。

試合は1ラウンド3分で、長く戦ったとしても3ラウンドまでなので、向き合う時間は最長でも9分しかありません。誰かと話す時の9分って、短いですよね。でもリングの上の9分はそうした一般的な時間の流れとはまったく違っていました。何十時間もたっぷりと話した後のような満足感がありました。そうした体を通じたやりとりの後に写真を撮ると、どれもめちゃくちゃいい写真なんですよね。

これがきっかけで、言葉のやりとりだけではなくて、触れるということも僕の存在や意志を相手に伝える確かな“声”であるということを確信できるようになりました。

触れることもメッセージだと確信できるか、できないかの差は僕にとって大きかったです。

それまでは写真家としてやっていく上で、声を通してのやりとりがうまくできないことに不安があったけれど、触れることで伝わり合うものを声として受け止めて聞いたり、声として伝えることができると確信したことで、不安が激減しました。

触れることもメッセージである、そのことを教えてくれた大切な一枚です。

自らの戒めのために組み込んだ二枚の写真

齋藤陽道-5

この写真は2009年か2010年頃、InstagramなどのSNSが台頭してきた頃に撮った写真です。

当時の僕も目新しさからInstagramやTwitter(現X)で人の目を引きそうな写真を撮ってアップしていました。ただ、個人の欲望や自意識の表れであるハッシュタグが写真とセットになって露わになっていることへの嫌悪感も抱いていて、次第に段々と心がすり減ってしまっていました。

どこかで写真の素朴かつ劇的な地点に立ち帰る必要があるなと感じていたこともあって、写真集としてまとめる時に「相手がいるから写真が残る。当時の時間が残る。相手がいてこその写真だ。」という当たり前ともいえる地点を打ち立てておいたほうがいいなと思い、この写真を組み込みました。

この写真が載っている次のページに、このとき撮ってもらった写真を入れました。わかりやすく隣り合わせにもしたくなかったので、次のページに跨っています。デジャヴのように気配が残って、読む人に伝わればいいなと思ってそうしました。

齋藤陽道-6

相手が目の前にいるということ。そこに無条件の歓待や尊重の思いをこめていくことで、ことばで取り繕う必要もなくなり、より良い謎をはらんだいい写真として残るんだな……ということを改めて感じます。

この“相手を尊重する”ということがInstagram等の写真ではなかなか見られないと思っていて……あるのかもしれないけれども僕はまだ知らないです。SNSの写真が当たり前になっていると、多分どこかの時点で「いったい誰のために、何のために、撮っているんだろう」と疲れてしまう時がくると思うんですよね。

そうしたとき、立ち戻るところはやっぱり自分の心が動いたとき……、つまり自分自身の「感動」にしかないと思っています。

今までまったく知らなかったものが自分の心を貫いていって、そして、その未知と繋ぎ直して未来を切り開いてくれるもの。自分の存在がちっぽけになって、消えてしまって、でも、再生も同時に行われている。そうした複雑怪奇で恐ろしいものが、本来の「感動」なんだと思います。

本を読んで深く感動する時ってそんな感じですよね。自分の感動を信じることができるというのは、誰かの意見や言葉に惑わされないということですから、表現者として、いや、人間として逞しくなれますよ。きっと。

とはいえ、ぶくぶく肥えていく承認欲求はやっぱりまだまだ僕にもあって、自分でも嫌だなと思っているので、この2点の写真を戒めとして入れました。

撮り始めたあの頃。を振り返って

駆け出し当時は、自分の写真にも、自分自身にも自信がまるでなかったので、「人間を信じたい」という気持ちで動いていた部分が強くありました。

その思いは、写真集にまとめる際に今一度深く考え直すこととなり、結果的に僕の写真家としての土台を築くことに繋がりました。

『感動』の写真たちには、ほかにも1枚1枚に同じくらいの純度のエピソードがあります。ただ、写真集にするときこうしたことを文章にすると、わかりやすくてうさんくさくなるなとも思うので、説明を一切省きました。それも今にして思えば英断でした。おかげで、9年後の続編の『感動、』に繋がりましたし、まだまだ『感動。』にも繋げたいです。

まだ先の話なので、『感動。』のあとに、意外と『感動!!!』で続くかもしれないし(笑)。

他にもたくさん続けたいシリーズがたくさんあるので、今後とも応援いただけると嬉しいです。