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写真と哲学 #写真家放談 |ワタナベアニ 写真と哲学 #写真家放談 |ワタナベアニ

写真と哲学 #写真家放談 |ワタナベアニ

ワタナベアニ

前回は写真の科学的な面と文学的な部分を書きましたが、さらにもう一段階、源流に遡りましょう。哲学とアートとはとても近い関係にあります。哲学というとややおおげさに聞こえてしまうかもしれませんが、なぜ写真を撮るか、を突き詰めて考えることは十分哲学的な領域だと思っています。

哲学的問題というのは、「無視していても日常生活は送れるが、一度考え始めたら世界で一番難しくて大事な命題」のことです。結果がカタチになってあらわれる科学や経済などと違って、その学問としての根本には明確な理由がありません。明確ではないからこそ輪郭を描く欲求が生まれるのです。

写真を例にして単純に言えば、撮る衝動でしょうか。「私はここで写真を撮らないで通り過ぎることもできたのだが、撮った」そのときの心の動きは自分でさえ理屈で説明できないことがあります。写真の純粋さから判断すると、撮った理由を説明できるモノは多くの場合、思考が短絡的とも言えます。

哲学という言葉をもっとわかりやすく表現すると、頭脳のオリンピックのようなものです。アスリートの肉体と同じように頭脳も進化しています。

たとえば1896年のアテネオリンピック、男子100m決勝の記録は12秒0でした。2020年のデータですが、12秒0を記録した日本の男子高校生の欄には、約4000人の名前が書かれています。当時最速で金メダルをもらった人の記録は、今となっては高校生にとっても平凡なタイムなのです。このように、筋肉と同じことが脳にも起こっていいはずなのですが、そのあらわれ方は少し違っています。物理学や機械工学などは最先端技術として目に見えて進化しています。

しかし「哲学」はどうでしょう。紀元前のソクラテスの時代に生まれた素朴な疑問に、現代の最高の頭脳をもってしても答えを見つけることができていないのです。なぜ私は写真を撮りたいのか。写真が生まれたばかりの頃は、目で見ている三次元の世界が二次元の湿板や印画紙に写し取れることだけでも衝撃だったと思います。

そこから絵画との存在の違いや技法などが洗練されていき、135と呼ばれるフィルムサイズになって誰にでも撮れるようになっていきました。その頃には目で見ているモノが写る、という衝撃は当たり前のことになっていますから、徐々に写真は「表現」に向かっていきます。

写真を撮っている人がよく使う言葉に「作品撮り」というのがあります。自分ではその言葉を使いませんし、ずっと不思議に思っていたのですが、哲学が大きく欠損している印象を持ちます。「さあ明日はスタジオを予約してモデルも来てくれるから作品を撮るぞ」と言われると、ではそれ以外のすべての瞬間は作品を生み出そうとしていないのか、と思ってしまうのです。

確かにモデルとヘアメイクとスタイリストがいてスタジオで撮っていればそれらしい雰囲気は出ます。でもそれは風光明媚な観光地で撮るように「さあ、ここで撮りなさい」というお膳立てに左右されているような気がするのです。作品とは呼びませんが、日々の仕事では私もスタジオでそういうことをしています。仕事の撮影には目的がありますからあまり多くのシャッターを切りません。しかしスタジオまで行くタクシーの窓から見た風景などはたくさん撮ってしまいます。

さて、このどちらの写真が作品でしょうか。答えはどちらも同じで、何を選ぶかだけです。

仕事場に戻って撮影したデータをコピーしていると、スタジオでの仕事の写真は少なく、それ以外の写真の方が多いことはよくあります。写真は撮ることにおいて、選ばれることにおいて、等価なのです。私が写真展をする場合に多く選ぶのはそういった日常的な写真です。そこにこそ自分が写真を撮る上での哲学が詰まっているからで、完全に連続した思考の中の一瞬を選びます。

私は写真を説明するときに「サトリ」という妖怪の話をします。人が考えていることをすべて読み取る妖怪の話は聞いたことがあるでしょう。写真を撮るときの気持ちがサトリに読まれているうちは撮れたモノが陳腐になりがちです。ああ、あなたはこういうモノを発見したので、こういう光でこういう画角で撮りたかったんですね、という心境が他人から透けて見えているということです。そうなると写真の魅力は減ってしまいます。

ではどうするか。サトリに勝った主人公の男は、どんなことをしても行動が読まれてしまうので攻撃ができませんでした。しかし薪を割っていると偶然それが飛んでいき、サトリの目を直撃します。この偶然はサトリにも推測できなかったからです。男は自分で意図しない、つまり無になることで生き延びることができました。写真は、サトリにも自分にも写真を見る人にも想像ができない衝動で撮るのが理想なのです。

そうして撮られた写真は最初に自分が驚くことができます。自分が驚くことができれば他人は当然驚きます。そのためには、写真を撮っていることが呼吸と同じくらい意図していないモノになるまで撮り続けていなければならず、月に一度スタジオで撮ることを作品撮りと言っているようではまったくダメなのです。

呼吸するように撮っていると、つまらない写真を量産します。しかししばらく時間が経ってからその膨大な写真を見直すと、心のどこかに引っかかる写真を発見することがあるでしょう。なぜ撮ったのかわからない。何を撮ろうとしたかわからない。そういう写真をずっと眺めていると「目が止まる」という意味がわかってきます。適切に目的通りに撮られた写真はその目的を理解した瞬間に見られることをやめます。わかったからです。しかしわからない写真の上には長い時間、目が止まるのです。雑誌でもネットでも同じで、たくさんのページをめくる、スクロールする中で手が止まる写真が必ずあるはずです。

私が思う「いい写真」とはそういうことだと思います。目立つ、というのとも違います。写っているモノの面白さや綺麗さを超えて、この写真を撮った人は何を考えていたんだろうという哲学を感じさせてくれるのが長い時間見ていられる写真です。ですから安易に答えを書いてしまうような写真はどんどん飛ばされていきます。理解が早いのです。

「天才の発明は百年後に常識になるが、バカの発言は千年後も謎のまま輝く。」『ロバート・ツルッパゲとの対話』より

撮る衝動が個人的でプリミティブであればあるほど、誰にも答えを理解されずに永遠の謎を持ち続けるということです。これはテーマパークの看板の下でピースサインをして撮ることや、絶景を絵はがきのように撮ることと正反対の態度です。誰かがすでにやっていること、誰でも必ずやることを排除してできあがっているのが哲学であり、ギリシャ時代から解決されていない、人間の普遍的な知的好奇心です。写真にはそれを表現するチカラがあります。

まずは、「こういう写真は誰かが撮っていたな。私はそれをなぞろうとして今シャッターを切ろうとしたんだな」と自問自答してみてください。しばらくの間は、どんなにいい風景を見ても1枚も写真が撮れなくなると思います。でも我慢するのです。その苦しさを乗り越えたときに、「あの人の写真はなんとも表現しがたいんだけど、他の人とは違っていて、いいよね」と言われるようになります。

まずは、と書いたのは、そこはゴールではなく出発点でしかないという意味です。

PHOTOGRAPHER PROFILE

ワタナベアニ

PHOTOGRAPHER PROFILE

ワタナベアニ

ワタナベアニ

1964年横浜生まれ。写真家・アートディレクター。広告プロダクション、株式会社ライトパブリシティ勤務を経て、1999年、CMディレクターの平林勇と「NINJA FILMS」設立。アートディレクター・クリエイティブディレクターとして「45R」「HENRY CUIR」のクリエイティブディレクションを手掛ける。2006年より写真家としての活動を本格的にスタート。雑誌・広告・ファッションカタログ、国内外での写真展を中心に活動。

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