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COLUMN

2021.11.24

科学と文学 #写真家放談

ワタナベアニ


写真を撮るときに必要な「視点」。よく聞く言葉だと思いますが、正確にその意味を考えたことはあるでしょうか。視点にはたくさんの解釈があります。全部話してしまうと私の仕事がなくなってしまうかもしれないので、今日は半分くらい話しましょう。 

まず、写真を構成する要素を分解していきます。私は、写真は「科学と文学」でできていると思っています。昔は写真技師という呼称があったくらいで、写真を撮ることはきわめて特殊で専門的な技術が必要でした。つまりカメラという機械を操作できる人が限られていたのです。今は違います。スマホやコンパクトカメラ、ミラーレスでも買ったその日から高精度な写真を撮れます。でもこれは「撮れた」という結果だけの話で、まだ作品とは言えません。 

ここが一番の落とし穴なんですよね。デジタルカメラは、できた気にさせてくれるのが早いのです。フィルムを使っていた頃はそうではありませんでした。最初にフィルムを入れて撮るとだいたい失敗します。マニュアルフォーカスゆえのピンボケ、露出の失敗。フィルムが持っている感度がとても低かったので暗い場所ではどうしてもスローシャッターになり、ブレた写真を量産しました。最悪の場合はフィルムが送られていなかった、もしくは入っていなかった、なんていうこともありました。そういった失敗を何度も繰り返しながら、「これをしてはいけない」「こういうときはこうするべきなのか」と学びつつ、段々撮れるようになっていきました。まだまだ撮影には最低限の技術が必要だった時代です。 

ある程度の年齢の人には心当たりがあると思いますが、フィルムの時は旅行から帰ってきて数日後に現像された写真を見てから失敗に気づき、泣いたものです。旅の思い出がゼロ、号泣です。その点、デジタルカメラやスマホには失敗がありません。モニターに見えているとおりに撮れますし、気に入らなかったらその場で撮り直すことができます。なかには数十枚連写して、目をつぶっていない、写っている全員が笑顔の写真をセレクトしてくれるなんていう機能まであります。これらはテクノロジーの進歩ですから悪いことではありません。しかし、失敗しないと学べない部分が省略されてしまったことは事実です。なぜ暗い場所で撮るといけないのか、などと悩んでいたことを機械が勝手に感度を上げて対処してくれるので、気にする必要がなくなったのです。 

「写真は撮れたけど、なぜ撮れたのかはわからない」という偶然に支配されてしまうと、家族の記念写真などはいいのですが作品として突き詰めていくことができません。これは「科学不足」と言えます。写真を撮るメカニズムはカメラが発明されて以来まったく変わっていませんから、なぜこう写るのかという仕組みを正確に学ぶことはとても大切です。ただ、デジタルになってよかったところは、実験や試行錯誤が容易にできる点です。何回でも撮って試して失敗の原因を探ることができます。フィルムだとタイムラグがあり、その時の設定や状況を忘れてしまいますから勉強するのが困難でした。デジタルデータには撮影時の設定がそのまま残るので、あとからでも調べることができます。
 


次が「文学」です。写真を撮り始めた人の話を聞くと、撮りたいと思っていることと、出来上がった写真の間に大きな距離を感じることがあります。これは思ったことを映像化できていないということですが、それは適切な勉強法を知れば、数年でできるようになります。しかし、「これを撮りたい」という出発点である感情に精度がないと写真の進歩は止まってしまいます。ちょっとわかりにくいと思うので丁寧に説明しますが、小説家はいくら美しい文章を書けても、いい小説は書けません。これが写真を文学に喩えた理由です。 

問題は「真似」にあります。最初は誰でも真似から始めるんですよ、なんていう言葉も聞きますが、それを鵜呑みにしてはいけません。誰かの写真を真似てもそれよりいい写真は撮れませんし、おかしな癖だけが身についてしまって抜け出せなくなります。写真コンテストの審査員をしたことがありますが、アマチュアの写真を見ると、どれもよく似ています。ある種のお手本通りに撮れるようになることを、巧くなると思っている人たちが多いということでしょう。 

たとえば瀬戸内海みたいな雰囲気の海岸を、白いワンピースを着た麦わら帽子の女性が長い髪をなびかせて歩いている。そういう写真を見て、あなたはどう思いますか。これを「クリシェ」と呼びます。濫用されて飽きられた典型表現、という意味の言葉です。写真を撮る出発点がクリシェに侵されていると、できあがる写真はそれ以上良くなりようがありません。これが2番目の「文学不足」です。ポートレートを撮るときは、写っている人がどんな人で、何をしていて、何を考えているかの表現が求められます。その重要なポイントをどこかのお手本で見たようなシチュエーションに当てはめたらそこで試合終了なのです。 

ですから最初に、どんな状況が映し出されていたら自分の写真になるのかを、写真だけではなく、文学的な感情表現として突き詰める必要があります。今どき白いワンピースに麦わら帽子を被った女性なんて、海岸を散歩していません。つまり上質な文学に触れていない分、想像が貧弱なのです。絵を観る、音楽を聴く、演劇を観る、小説や詩を読む。徹底的に上質な文学に触れていれば写真は変わります。 

私の友人には写真が上手な人がたくさんいます。当然写真家も多いのですが、なかにはミュージシャン、詩人、芸人や建築家もいます。彼らは写真の技術の前に物語を構築するチカラを備えているので、簡単に使えるデジタルカメラを手にすれば、立派な写真を生むことができるのです。写真を学ぶというのはカメラのスペックに詳しくなることではありません。いいカメラを買うことでも、有名な写真家の名前を知っていることでもない。自分しか見つめていない世界を他人に見せる能力が大切なのです。 

最後に簡単な訓練の方法をひとつだけ。世の中に存在するすべての写真は、誰かが撮影しています。雑誌でもネットでも駅のポスターでもいいです。その全部を、「自分が撮影を頼まれた」と思って、観察してみてください。どんなレンズで撮っているか、ライトはどこから当たっているか、服はどんなブランドなのか、現像やレタッチは、と考える訓練をするのです。するとわからないことがたくさん発見できると思います。わからないことはネットでも何でもいいので調べてみます。モデルが着ている服はこういうブランドなのか、とわかって知識が蓄積されれば、海岸で白いワンピースを着せるような昭和的なことはしなくなるはずです。


あなたが撮る写真は、あなただけが見た世界です。隣にカメラを持った友人がいても見過ごすかもしれないものをあなただけが撮る。あるカメラマンが、「いい写真を撮る秘訣はなんですか」という質問をされたとき「何かが起きたときにそこにいることだよ」と答えました。これは報道カメラマンの発想ですが、写真全般に言えることです。絵と違って写真はそこに対象物がないと撮れません。ですから、自分が興味を持ったものはこれです、という視点がカメラマンの数だけあるはずなのです。観光地でたくさんの人が絶景を写すポイントで撮っていますが、それでは全員が同じ写真になってしまいます。どんなところにいても自分だけが見つめる対象を撮る、という意識を持っていれば、撮りたいものが決まり、撮らないものも決まってきます。 

最初に、「あまり説明すると私の仕事がなくなってしまう」という冗談を言いましたが、そんなことはありません。私と同じ写真を撮る人はひとりもいないからです。
 

PHOTOGRAPHER PROFILE

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ワタナベアニ

ワタナベアニ

1964年横浜生まれ。写真家・アートディレクター。広告プロダクション、株式会社ライトパブリシティ勤務を経て、1999年、CMディレクターの平林勇と「NINJA FILMS」設立。アートディレクター・クリエイティブディレクターとして「45R」「HENRY CUIR」のクリエイティブディレクションを手掛ける。2006年より写真家としての活動を本格的にスタート。雑誌・広告・ファッションカタログ、国内外での写真展を中心に活動。

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