ただ、足元を見つめる # 写真家放談 | 砺波周平

砺波周平

北海道出身/写真家。大学在学中から写真家の細川剛氏に師事する。大学のある青森県十和田市にてパートナーと古い家を直しながら暮すうちに、何気ない時間の中にたくさんの感動があることを知る。八ヶ岳南麓に移り住み、妻と三姉妹との日常を見つめ続けている。現在、長野と東京の二拠点で出版、広告などの撮影で幅広く活動中。『暮しの手帖』 第五世紀よりトビラ写真を担当中。2018年作品集「続 日々の隙間」発刊。

Instagram:@tonamishuhei
HP:http://tonami-s.com/


砺波周平さんの作品

僕が写真と出会ったのは札幌で過ごしていた高校時代です。当時空手部に所属しておりましたが、たまたま家が近所だった写真部の顧問の先生に誘われて、兼部というかたちで写真部に入部しました。父のキヤノンAE-1を譲ってもらい、時間の合間を縫って暗室に入り、現像やプリントをするようになりました。空手部の練習がきつかったので、暗室作業は良い息抜きになっていましたし、友人の写真を撮ったりしながら結局卒業まで続けていました。高校三年生の秋に札幌市の高文連へ出展した写真が、なんの間違いか入選し、全道大会へ出展されることになりました。まぐれとは言え、選ばれたのはとても誇らしかった記憶があります。

高校卒業後は大学進学を考えていましたが、明確な目標もなく現役時代に受けた大学は全て落ちてしまい、予備校に通い始めました。特にやる気もなく受けていた現代文の授業で、講師がおすすめの本を紹介してくれたのですが、その時紹介された本に小林紀晴さんのアジアンジャパニーズがありました。孤独を抱え異国を旅した著者が、旅先で出会った日本の若者たちの心境を、写真と文で描写するドキュメンタリー。旅という非日常へ逃れてきた若者のリアルな心情を綴った文章と、アジアの湿った空気が漂ってきそうな薄暗いモノクロポートレート写真は、虚しさと焦りで乾いた僕の心に沁み渡っていきました。
目標を持てず、先行きが見えない不安を抱えた自分と、アジアを旅する若者たちを重ねていたのかもしれません。そして、高校時代にやっていた写真が表現の手段になりうるのだということにも希望が湧いてきました。

海外で働きながら写真を撮ろう。この本と出会ったことで、鬱屈していた自分に初めて目標が生まれた気がして、とても嬉しかったのを覚えています。こうして僕は進路に環境学を選び、青年海外協力隊に行こうと思うようになりました。

砺波周平さんの作品

大学は獣医畜産学部の環境学科に進みました。特殊な学部だったこともあり、一年間は神奈川のキャンパスで一般教養を学び、二年生からは農場などがある青森県十和田市にキャンパスが移るシステムでした。多感な時期に神奈川から青森へ移動することは躊躇がありましたが、青森は暮らしてみると物価も安く、海あり、山あり、食べ物も美味しく、素晴らしい環境でした。学生達の距離も近く、それぞれにやりたいことを探して、のびのびとキャンパスライフを楽しんでいたように思います。僕も写真部に所属しながらも、ヒッチハイクで離島を旅したり、登山や、バンド活動に明け暮れていました。そんな大学二年目の冬、大学で開催される市民講座に、ある写真家が講演に来ることを聞きました。講師は細川剛さん。以前から名前をよく聞いており、いつかお会いしてみたいと思っていた写真家でした。

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細川さんは同じ大学の卒業生で、大学在学中に写真家を志し、八甲田山や白神山地の写真をまとめた写真集『森案内』や、一本の木の下で長期間過ごし、そこで見えてきたものを表現した『あの樹に会いに行く』、どこにでもある川原の生命やその周辺の人々の営みを描いた『奥入瀬川、僕の川原日記』という連載を抱えていました。自然を被写体にしていますが、いわゆる自然を鮮やかに切り取るネイチャー写真ではなく、物事の奥深くに入り込み、被写体と時間をかけてしっかり向き合う作風でした。

この講演での出会いがきっかけになり、僕は時々細川さんの写真の整理を手伝ったり、出張の時に飼い犬を預かったりするようになりました。ある日細川さんに、将来は海外へ行って働いてみたいと伝えてみました。すると、「安易に海外に行くなんて言っちゃダメだよ、一度しっかりと自分の足元を見つめてみなさい」と、返ってきた応えは想像と全く逆のものでした。これまで撮った写真も見てもらいましたが、「被写体と、もっとしっかり向き合いなさい」、「根拠のないプライドは捨てなさい」と繰り返し言われ続けました。しかし、僕はその言葉をなかなか素直に受け止めることができません。当時海外へと意識が向いていた僕にとって、身近なものに目を向けることは、地味で退屈なことに思えていたのです。細川さんの姿を側で感じながら、海外への憧れを捨てきれない自分との葛藤は続きました。次第に何が正しいのかわからなくなり、写真も撮れなくなってしまいました。

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そんなある日の休日、アパートの周りを散歩してみました。よく晴れていて建物の隙間から日が差し込んでいたり、コンクリートの割れ目には雪解け水が溜まって輝いています。季節は二月中旬でまだ寒く、草も花も生えていませんが、冬が終わり、もうすぐ春が来るんだと、気持ちが高鳴りました。そして、この感動を夢中になって写真に収めていました。今思うと、季節の変わり目を感じてワクワクする気持ちは誰でも当たり前にあることだと思えますが、この時の僕にとって、なんてことない見慣れた道に感動が潜んでいると気がつけたのは、とても大きなことでした。海外に行かないと見つからないと思っていた世界は、実は身近にあるのかもしれない。初めてそう感じることができたからです。

細川さんは「今ここにいること」を素直に受け止め、目の前にあるものを見つめ生きていくべきだと諭してくれていたように思えます。こうして、僕は外へと向いていた気持ちを自分の足元へと向けられるようになっていきました。

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その年の新学期、後輩の小木志を美さんが十和田市へ引っ越してきたのです。彼女は掃除、洗濯、料理などを実に楽しそうに想いを込めてやっていました。その様子を眺めながら、普段気に留めていなかった生活の中にも心が動く瞬間があることに気がつきました。そしてその一つ一つを写真に残してみたいと思うようになりました。そのころ僕は卒業を控えていましたが、就職活動は一切しない代わりに、自分達らしい暮らしを探してみようと思い、志を美さんと家探しをはじめたのです。

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毎日くたくたになるまで自転車で走り回り空き家を探しました。何軒も断られながらも、ようやく古い木造の一軒家を貸してもらえることになったのです。家賃は格安でしたが、壁も剥がれ、床も畳も腐っていて、すぐには住めません。ですが、当時の僕らには時間がたっぷりあったので、再び町中を駆け巡り廃材をもらいうけ、近所の人たちに助けてもらいながら見よう見まねでコツコツと直し始めました。床も壁も廃材なので、幅も厚さもでこぼこでしたが、愛着の湧く家が完成しました。そこに捨て猫と捨て犬の家族も加わり、新しい生活は始まりました。

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この様子が地元の新聞社の目に止まり、家探しから家を直すまでのドキュメントを二年ほど連載させてもらったのが、初めての仕事になりました。そして、この家での生活の様子を、「日々の隙間」と名づけた作品集にまとめ、手作りで二冊製本し、一冊を細川さんに渡しました。

砺波周平さんの作品
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こんな暮らしを数年続けていたある日、志を美さんが妊娠しました。これを機に細川さんの元から独り立ちすることを決意。東京で暮らすことも考えましたが、これまでのような生活を続けていきたいと思い、都内へアクセスしやすく青森と環境が近い八ヶ岳南麓の別荘地に移住しました。写真家として作品を発表していきたい気持ちもありましたが、子どもが産まれてくることもあり、お金が必要だったので一度、地元の写真店で働くことにしました。スタジオ撮影から、ロケ撮影、料理写真、建築写真など幅広い商業撮影を納品まで経験させてもらいました。働きながら写真のスキルを学ぶことができたのは幸運でした。そして、独り立ちするときも応援してくれたことは本当にありがたかったです。

子どもは無事に生まれ、妊娠から出産までの記録を「カレンダー」という作品にまとめましたが、特に公にすることはありませんでした。二十代半ばを過ぎ、同世代の写真家たちが写真賞を受賞したり新しい視点で捉えた作品集を出版したりと活躍し始めていたことに焦りはありましたが、自分は身近なもの以外は撮らないと決め、コツコツと撮影を続けていました。

砺波周平さんの作品
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移住して数年経ってから、新たに家探しをし、再び古い木造一軒家を借り受け、青森の時のように、自分達で直しながら暮らし始めました。子どもも小学校に通うようになり、諏訪地方独特の御柱祭という祭りに参加することで地域との関係も今まで以上に深まっていきました。仕事の方も衣食住にまつわる撮影を中心に、次第に雑誌や広告などの仕事も増えていきました。2020年の春からは『暮しの手帖』のトビラ写真を担当することになり、これまで撮り溜めてきた家族の日常を掲載してもらっています。

子どもたちはいつしか三姉妹に増え、長女は高校生、次女も中学生になります。妻の志を美さんも少女から中年へと歳を経てきましたが、これからも変わらず自分の足元を見つめ続けていこうと思っています。

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