写真と言葉 #写真家放談 |トナカイ

トナカイの作品

僕はおもに、ひとの肖像を撮ることを生業にしています。時折、詩を書いて、その対価を得たりもしています。多くの依頼は個人の方から直に僕のところに来て、写真なり、言葉なり、じぶんが為した成果をその方にお渡しすることで仕事が終わります。そういったことを続けるうちに、僕は多くのひとに認めてもらえるということ以上に「ひとりのひとの心を動かした」という手応えに、よろこびを感じる性分なのだと気づきました。

僕が撮らせていただく肖像写真は、公開することが目的の場合もありますが、「じぶんのためだけに残しておく」という場合も多く、僕と依頼してくださったご本人以外に見るひとがいないということがよくあります。それでも、撮らせていただいた方からいただける感想の言葉は、ひとつひとつ確かな重さを持って僕の心を揺らし、大きな感動をもたらしてくれます。

写真に記録された自らの姿を見るとき、ひとは否応なしにじぶんという存在を見つめることになります。それは怖いことでもあります。じぶんの肖像写真を撮るという行為は勇気の要る儀式なのです。その重要な役割を任されることは撮影者として、とても幸せなことです。

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ところで、多くのひとに見せるための写真ではなく、そのひとのためだけに写真を撮ること。それは「表現」と言えるでしょうか? 僕にとってそれは、とても大切な「表現」です。なぜなら、じぶんが為したことが、たしかにひとの心に届いたと感じられることだからです。

表現の目的は、ひとの心を動かすことだと僕は思います。そのとき、数はそれほど重要ではありません。多くのひとの心を動かせることは稀有な才能だと思います。でも、それが最善というわけではないのです。たったひとりのひとの心を動かすことができたなら、胸を張って「表現できた」と言っていいと僕は思っています。

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10代の頃、カメラを手にしてからずっと写真を撮り続けてきました。20代の頃から、撮った写真をインターネットで公開するようになり、たまたま見つけてくれたひとから感想をいただいたりすると、それがうれしくて、また写真を撮りました。はじめ、写真は写真だけで見せるのがかっこいいと思っていました。何も添えられていない1カットの絵だけでひと目を射るという姿勢は潔く、強い覚悟をもった行為だと感じ、憧れていました。

でも、僕はインターネットで写真を公開するとき、よく言葉を添えました。どうしてでしょうか。そもそも写真だけでは表現に不足があるからでしょうか。いや、そんなことはありません。写真は視覚を通じて脳に訴えかける表現です。作者が見せたいと思うビジュアルを決められた画角のなかに収め提示すれば、不足はないはずです。何を感じるかは、見るひとに委ねればいい。僕がかっこいいと思っていた表現方法はそれでした。でも僕は、それでは気が済まなかった。写真に言葉を添えることで、何かをしようとしていました。美しい文章を書いて感心してもらいたいというわけでもなく、日記のような散文とか、ほんの一言の説明などを、写真とともに表していました。はっきり理由がわからないけれど、そのほうがよさそうな気がしていました。どうして、僕は写真に言葉を添えたのでしょうか?

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それが「見るひとの心をより強く動かしたいから」だと気づいたとき、言葉は役割を持つようになりました。写真は時間を止める魔法です。その大きな力を使って完全に静止した世界を鑑賞するのが写真表現の醍醐味でしょう。写真を撮れば、ひとの命だってそのなかに封じ込めることができます。生きているひとの顔、その皺の数、それが刻まれることになるまでの時間さえ、写真は表すことができるのです。その表情から写ったひとの性格を想像することだってできるでしょう。しかし、写真が教えてくれないことも多くあります。たとえば、写真に撮られたそのひとは「誰」なのか?

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「祖母」。

その言葉を添えるだけで、写真はより強い力を携えて、見るひとの心に届く気がします。誰かに向けて表現するというのは、土に水を与えることに似ています。そこから何かが芽吹くことを祈るような気持ちです。写真に言葉を添えることで、写真だけで表現したときよりも、見るひとの心に変化が起こりやすくなる。僕はそれを求めていると気づきました。これが祖母の写真だと告げることで、写真を鑑賞しているひとの心は、目のまえにある写真から離れ、記憶のなかの旅に出るかもしれない。そのひとのなかにある、やさしかったおばあちゃんのいくつかの思い出を呼び起こすかもしれない。記憶の扉をノックする。言葉の力はそこにあるのです。

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3年前に写真展をしたとき、生まれて初めて詩を書きました。もともとは写真だけを展示するつもりだったのですが、その展示では何か新しいことをしたいと思い、写真に着想を得て書いた詩を、写真とともに並べることにしたのです。詩を書くことの正解など見当もつかないまま、手探りで書いた拙い詩でしたが、ひとつだけ心がけたことがあって、それは詩のなかにじぶんの感情を表す言葉を使わないようにすることでした。なぜなら、感情は写真や詩を目にしたひとの心のなかに生まれるもので、じぶんが前もって差し出すものではないと思ったからです。

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言葉は、読んだひとの心に、そのひとだけの感情や情景を生むきっかけになれば、それでいいと思いました。いま思えば、そういう考えが、詩をひとつの表現として独立させたように思います。とてもうれしかったのは「詩を読んだとき、これは私のことだと思いました」という感想をいただいたことでした。それは、写真だけでは生まれ得ない感情だったと思います。

印刷され壁にかけられていた言葉の連なりが、そのひとに読まれたことで命を持ち、そのひとの心のなかに居場所をつくったのです。それは言葉の持つ魔法だと思いました。写真は時間を止めることができる。そして、言葉は止まった時間を動かすことができる。

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写真も言葉も、基本的には二次元の表現です。紙に印刷されたり、モニターに表示されたりして、ひとの目に触れます。でも、工夫をすれば、空間や時間を生み出して四次元の表現になり得る。その鍵は、「見るひとの心のなかにこそ表現の場所がある」と意識することだと思います。二次元での、じぶんの写真や言葉の良し悪しにこだわりすぎると、どこかで行き詰まってしまうのではないでしょうか。

だから、僕はひとの心という無限の時空にじぶんがつくったものを届けるなら、どんな工夫をしたらいいか? そういったことを考えています。大切なのは、じぶんが差し出したものに込められた力が、見るひとの心に作用し、そこにある美しいものを呼び起こすことです。写真や言葉自体を美しいと感じてもらえるのはとてもうれしいけれど、写真や言葉を通じて、それよりもっと美しいものがあなたの心のなかにあるのだと気づいてもらえるほうが、僕は幸せです。わかるでしょうか。綺麗事だと思うでしょうか。それでも、じぶんにとってほんとうに価値があることがそれだと気づいたいま、まっすぐそちらを向いて進んでいくことに僕はよろこびを感じています。

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