写真表現の余地を狭めうる「わかりやすい言葉」 #写真家放談 |高埜志保

私は撮影前に脚本やあらすじを考え、被写体の方と共有した上で撮影に臨むことが多い。物語の流れや被写体の心情の変化を感じさせるような写真表現を目指すうちに、約5年前にこの撮影スタイルにたどり着いた。

高埜志保さんの作品

1年前、私は自分の撮る写真のことを「映画のワンシーンのような写真」と称しており、SNSのプロフィール文にもその一文を掲載していた。自分の撮りたい写真について深く考えることをせず、軽い気持ちで使い始めたこのキャッチフレーズだったが、それ以降(因果関係は不明であるものの)SNSのフォロワー数は急激に増え、写真関係で会う人から「映画のワンシーンのような写真を撮られる方ですよね」と認知していただけることが多くなった。私は、高埜志保=映画のワンシーンのような写真を撮る人、という構図が出来上がりつつあることに満足していた。

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そんなある日、尊敬する写真家の方とオンラインで対談した際に、「高埜さんが考える、映画のような写真って何ですか?」と質問を投げかけられた。その瞬間、頭が真っ白になった。私は、常日頃から堂々と掲げているキャッチフレーズであるにも関わらず、「映画のような写真」とは何か深く考えたことがなかったのだ。

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よく考えてみれば当たり前のことかもしれない。分かりやすい言葉に安易に飛びついてずるずると使い続けてきた私は、目指す写真の在り方を表現する言葉の解像度を上げる努力を怠ってきたのだった。

分かりやすい言葉を使うことの利点は、自分の伝えたいことをより多くの人に共有し、より多くの共感を得られることだ。言語が思考を規定する、とまでは言わないが、私たちの思考は言葉によって多大な影響を受けている。一人の人間の頭の中にあるだけの曖昧で形のない概念が、言葉を介して他の人に伝わったとき、その概念は形を成し、実在しているものだという共通認識が生まれる。他の人と繋がっている安心感や連帯感を得ることもできる。ただ、それとは引き換えに、分かりやすい言葉を使うことで何か大切なものを失ってしまう気がする、というのは、悲観的すぎるだろうか。

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note上の記事でも書いたことがあるが、私は雨が上がった後に立ち昇る、埃っぽく湿った匂いがとても好きだ。この何とも言えない匂いに「ペトリコール」という名前が付いているのを知った私は、安心感や納得感を覚えるとともに、もうこの名前を知らなかった頃の自分には戻れないのだという寂しさを感じた。「ペトリコール」という名前を知ったことで、雨上がりの日に私が拾い集めた取り止めのない感覚が一つの言葉に収斂し、かつてのようなリアリティを失ってしまったような気がした。そして、自分の中でも、あの匂いを表現するのにぴたりと当てはまる言葉を探索する上での切実さが失われてしまったように思えたのだ。

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これらの経験から、私は名付けるという行為の残酷さを垣間見た気がした。分かりやすい言葉に過度に依存することが、自分の表現の余地を奪う可能性について意識的であろうと心に留めるようになった。

今、SNSを見ていると、分かりやすい端的な言葉が好まれて使用される傾向にあるように思う。「○○が美しかった」というキャプションを添えてSNSに写真を投稿する時、あくまで個人的な感覚だが、その写真に本来宿るより粒度の高い感性(例えば悲しさ、優しさ、曖昧さなど)が、「美しさ」という目の大きなふるいに入れられ、ぽろぽろと落ちていってしまうような感覚に陥ってしまう。

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そもそも美しいとはどういうことだろう?自分はこの被写体にどのような美しさを見出しているのだろう?……そうやって思いを巡らせているうちに、「美しい」の他にしっくりくるような言葉との出会いを果たし、自分の撮った写真の新たな魅力を見出すことに繋がるのではないかと思っている。

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誤解を招くかもしれないが、私は「映画のワンシーンのような写真」や「○○が美しかった」という言葉を使うことの是非を議論したいのではなく、他の方がその言葉を使っているからと言って否定する気もない。SNSの使い方や目的は人それぞれだし、敢えて分かりやすい言葉を使うという戦略もあると思う。ただ、あくまで私の価値観として、表現者を名乗るからには、自分の生み出すものを自分の言葉で表現する努力を放棄したくはない、というだけだ。自分の表現したい世界とぴたりと当てはまる言葉が見つかるまで、写真からも言葉からも逃げずに、真摯に向き合い続けていきたいと思う。

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