とおまわりな花々 #写真家放談 |小川紗良

PHOTOGRAPHER PROFILE

小川紗良

PHOTOGRAPHER PROFILE

小川紗良

1996年東京都生まれ。文筆家・映像作家・俳優。2019年早稲田大学文化構想学部卒業。俳優として、NHK朝の連続テレビ小説『まんぷく』(2018〜2019)、初主演ドラマ『湯あがりスケッチ』(2022)等に出演。文筆家としては小説『海辺の金魚』(2021)、フォトエッセイ『猫にまたたび』(2021)を手がけるほか、雑誌やウェブメディアに多数寄稿している。映像作家として初の長編監督作である『海辺の金魚』(2021)は韓国・全州国際映画祭に正式出品された。2023年からはJ-WAVE「ACROSS THE SKY」にてラジオパーソナリティを務めている。

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その花は、私が目にするまでのあいだ、本当にそこに存在していたのだろうか。誰も気に留めないような場所や、人の少ない僻地なんかで美しい花を見たとき、そんな思いに駆られる。見せつけることも媚びることもせず、ただ自然体で風に揺られ光を浴びている。自分にはない、その強さと柔らかさに惹かれて、私は憧れるようにシャッターを切る。

私がカメラを持つようになったのは、コロナ禍に入ってからのことだ。それまでは、旅行の際に使い捨てカメラで思い出を残す程度で、写真は「特別な日の記録」でしかなかった。それ以上に写真を撮ることへの怖さもあった。カメラを持つ前から、写真を撮るのが好きだということは自覚していた。たぶん、撮られるより撮ることのほうがずっと好きだ。だからこそ、本格的に写真に手を出せば、もうあとには戻れないような気がしていたのだ。凝り性でオタク気質な自分への警戒心から、私はなんとなくカメラを持つことを避けていた。

小川紗良

新型コロナとともにある日常は、そんな私のパンドラの箱を開けてしまった。外出自粛期間中、よくひとりで散歩に出掛けていた。ただ歩くのもつまらないので、初めは使い捨てのフィルムカメラをまとめ買いして何気ない風景を撮っていた。徐々に、使い捨てはかさばるしエコじゃないと思って、カメラへの興味が湧いてくる。通りかかったヴィンテージショップで、フィルムカメラコーナーを覗いてしまったが最後。気づけば私の手には、自分だけのカメラが握られていた。

せめてデジタルにすればよかったものを、フィルムまっしぐらだったのは、なにか私の中に「焼き付けたい」という衝動があったのだと思う。「フィルム」という手に取れる物質に、一瞬の光を取り込む。その行為が、あの漠然とした不安の漂う日々のなかで「ちゃんとそこに在る」ということを証明してくれた。自分だけのフィルムカメラを手にして、私にとっての写真は「特別な日の記録」よりも「何気ないものごとへの愛情」へと変わった。ファインダー越しに見えるささやかな四角いピースを集めて、まあるい世界を創造することに夢中になった。

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「かさばるから」と言って使い捨てをやめたはずなのに、結局カメラを1台持てば欲が出て、マニュアル、オート、コンパクトと様々な形式やメーカーに手を出し、自分にフィットするものを模索した。物の値段に疎い私でも実感せざるを得ないくらい、フィルムの値段も現像の値段も高騰した。その度に、「また上がってるな」と思いながらフィルムを買う。そして「またやってしまった」と反省しながら、我を忘れて撮り溜めたフィルムを現像に出す。しかし2週間後に送られてくる現像データを見ると、「やっぱりいいな」と味をしめてフィルムを買い足してしまう。沼落ちとはこのことだ。

初めのころは、フィルムの装填に失敗したり、巻き戻す前にカバーを開けてしまったりすることも度々あった。せっかく撮ったものを台無しにして深く落ち込むが、不思議とそういうときほど撮ったものをよく覚えていたりもする。そもそも、デジタルよりもフィルムの方が圧倒的に撮った時の感情や匂いや温度感を鮮明に思い起こすことができる。その気配は、写真自体からも立ち昇るような気がする。「データを生成する」ことと「フィルムに焼き付ける」ことの違いなのだろうか。

実を言えば、最近になってついにデジタルカメラを購入した。あまりにもフィルムを消耗してしまうことへの危機感と、仕事でカメラを使う必要性が出てきたことからだ。デジタルカメラはすごい。いくらでもシャッターを切れるし、すぐに写真の仕上がりが分かるし、映像だって撮れる。しかし、撮れる写真の意味合いは、フィルムとは全くの別物だと感じた。デジタル写真は私にとって「情報」だ。笑っている人を撮れば、「この人は笑っています」ということがよく伝わる。対するフィルム写真は「体験」だ。「この人の笑顔は素敵だ」という私の実感が、丸ごと残るような気がする。それはフィルム写真のピントが合っていなくても、あるいはデジタル写真をいくらフィルム風に編集しても、変わらないから不思議だ。今は情報を伝えたいときと、体験を残したいときで、デジタルとフィルムを使い分けている。結局、デジタルはデジタルで新たな沼がひらけてしまったことは否めない。

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そんなふうにカメラを使い分け始めたころ、「とおまわり」というプロジェクトを始めた。プロジェクトというのも大袈裟で、要はこれまでの延長線上で芸術家業を続けていくのだが、この名前をつけることでひとつの軸を持ってやっていくという覚悟を示した。文章も、映像も、写真も、あらゆる芸術が消耗されていくことへの危機感。その裏で、数々のクリエイターや演者が無理のある労働環境に置かれ、「慣習」という名のもと心身を削っていることへの憤り。そういう世界とは一歩距離を置いて、心の豊かさを保ちながら活動を続けたいと思った。

もちろん、大きな流れに乗っていたほうが楽だし、経済的な利益も大きいだろう。これまでだって、創作に専念することを理由に断った俳優の仕事はいくつもあるが、もしそうじゃない道をえらんでいたら出役としてのキャリアはもう少し煌びやかだったのかもしれない。それでも結局、私は使い捨てカメラを使い続けることができないタチなのだ。フィルムとデジタルを手にしてもなお、フィルムばかり持ち出してしまう性分なのだ。働き方も写真の撮り方も、何かをただ消耗したくないし、されたくもない。文字通り「とおまわり」なことをしていると思う。しかし私にとっては目の前のわかりやすい利益より、時間をかけてたどり着くときめきの方が重要なのである。

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そんな思いを抱えて「とおまわり」のロゴデザインを依頼したところ、デザイナーさんが描いてくれたのは小さな花々がひらく姿だった。特にモチーフは決めず、理念だけを伝えていたので、そこから花々が浮かび上がったのは新鮮だった。思えば、私の写真フォルダには花々の姿がたくさんある。それも、なんでもない道端の花や、人知れず育ったような雑草ばかりだ。あまりの何気なさに、私の目に留まるまでのあいだ本当にそこに存在していたのか疑ってしまうほどである。しかし写真に収めることで、咲いては枯れるその刹那を確かなものにできる。その瞬間、そこにしかない花々があるということが、私を突き動かしている。

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