写真とわたし #写真家放談 |中川正子

中川正子さんの作品

写真を仕事にしてから25年以上経つ。そう書いてみて、その数字のインパクトにわたし自身が一番驚いている。四半世紀。いつのまにそんなに経ったのだろう。飽きっぽいわたしがこんなにもずっとすきで続けている行為は、他に、ない。

写真に出会ったのは高校生の時。写ルンですが大流行していて、ご多分に漏れずわたしもその波に乗った。お揃いの靴下、友達の変な顔。窓の外の光。目に映るものをとにかく撮っていた。少ないお小遣いの中での現像代のやりくりは馬鹿にならなくて、でも、残したくて撮っていた。いつかこの日々が終わるっていう予感とともに。だから、どことなく、切実だった。

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大学生になりアメリカに留学することになった。学費を支援してもらう交換留学生だったので何か成果を上げて帰る必要があり、勉強をするつもりがあまりなかったわたしは、写真のクラスを取ることにした。たまたま、留学前に一眼レフを買っていた。それを片手に、とても気軽な気持ちで。

ある程度自信のあった英語は現地では全く役に立たず、コミュニケーションに飢えていた。写真のクラスでは毎週課題があり、それをプレゼンテーションすることが求められた。クラスのみんなはやさしかった。教室の隅で寡黙にしているわたしを励ますように、わたしの発表には積極的にコメントをくれた。「マサコは今、外国で孤独だからセルフポートレイトで自分をそこに配置したのね」ぜんぜん、そんなつもりはなかったけれど、深読みしてくれるそんな発言から対話が始まることがとにかく、うれしかった。言語的コミュニケーションが不足しているもどかしさを、写真が補ってくれる感覚。すぐ、夢中になった。毎日そこらじゅうで撮って、毎日暗室で現像し、つたない言葉で必死にみんなに見せた。ねえ、どう思う?みんな。

そんなふうに写真と出合えたことは幸運だったなと、今では振り返っている。技術も何もなかったけれど「伝えたい」という思いだけが強くあった。わたしはこんなふうに世界を見ているけれど、みんなはどう?言葉にできない曖昧さや胸が震えた瞬間を、視覚的に伝えるツール。そこに思いもよらぬフィードバックや共感が集まる。そんな経験は今でも宝だったと思う。ビギナー向けのクラスだったけれど、常に、熱量は高かった。

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その後帰国し、商業写真の世界に足を踏み入れる。「伝えたい」は相変わらず熱くあって、シャッターを押すたびに高揚していた。音楽家のポートレイト、旅の写真。勢いと感動が写っていればそれが評価され、喜ばれる。そんな繰り返しはとても楽しく、同世代のスタッフと夢中になった。小さな媒体でも関係なく、楽しさと純粋さが宝だった。

やがてありがたいことに仕事の幅が広がり、広告写真にも挑戦することになる。個人的な感動というよりは正確さが求められることに戸惑ったりもした。そこに自分らしさを忍び込ませるにはどうしたらよいのか、試行錯誤も大いにした。思いが通じず、腹を立てたりしたこともあった記憶がある。個人的表現とビジネスとの間の折り合いや融合をいつも考えていた。ただ、うつくしい、だけじゃダメだってこと。技術も必要だということ。仕事と作品は混同しがちだけれど、違う、ということ。悔し涙もたまに流しながら、多くのことを学んでいった。

30代前半、ミリオンセラーのアーティストの仕事を定期的に担当させてもらうことになった。シングルを数ヶ月おきに発表し、アルバムのレコーディングや撮影はNYで。撮影した写真は青山の交差点のビルの上で燦然と輝いていた。全力で取り組んでいた胸を張れる仕事だったけれど、どこか、もやもやとしていた。なんだろう、この気持ち。

当時まだ10代だったそのアーティストは作詞作曲を自分で手掛け、意志は鋼のように強く、まさに「表現」している人だった。その仕事はプレッシャーも大きく、わたしまでもなにごとかを成し遂げているような気がしていた。けれど、つまり、彼女のプロジェクトの「写真係」を担当しているんだと思った。それはとても光栄なことだった。けれど、同時に、わたしもやりたい、と思った。規模はわたしのサイズでいい。でも、自分の表現がしたい。そんなふうに巨大なビルボードを見上げながら思った瞬間を、今でもくっきりと覚えている。

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その前から定期的に行ってきた個展。頼まれもしないのにほぼ毎日アップしているブログ。それらささやかなものを「表現」と呼んでよいのかはわからない。でも、たしかなのはやりたくてやりたくてやっていたということ。評価されたいというのも、ない。ただやらずにいられないだけ。写真を撮って文章を書いて。いつのまにか仕事と並行して、何年もそれを続けていた。「伝えたい」よりももっと、衝動的で、「撮りたい」と「書きたい」が毎日溢れていた。「頼まれもせず」というのは、尊いことだと思っていたし、今も思っている。

写真集を定期的に出すようになったのは子供が生まれ、2011年に東京から岡山に越してからのこと。毎日息をする暇もないほどしていた仕事が減り、頭のハードディスクに余裕ができた。今だ、と思った。はじめての写真集は「新世界」というタイトル。自費出版で1000部刷り、完売した。出版記念の展覧会には全国からたくさんの方が見に来てくださった。告知はほぼSNSで。今ではそれは普通になったけれど、当時はほんとうに驚き、とてもうれしかった。これまでにない喜びだった。顔が見える個人に、何かが伝わっていたという、喜びだった。みなさんの個人的な財布から個人的なお金をだしてくださって、一冊ずつ手渡していく。それまで媒体経由だと体験できなかった、やりとりに大袈裟じゃなく心が震えた。

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その頃から商業写真も、わたしの個人的な表現に寄せたご依頼が増えるようになった。個人的な視点をベースにクライアントのニーズに寄り添う。個人的な思いは個人的な場所で発表すればよい。そう腹を決めたら、逆に仕事と作品の境界線が曖昧になってきた。写真集も冊数が増えた。文章を書いてほしいという依頼も増えた。

そこからさらに10年。今でも毎日撮っている。撮りたくて撮りたくて衝動で撮るというよりは、撮るのが当たり前という、穏やかさで。カメラは少し前に軽量化したくて初めてのミラーレスを選んだ。写ルンですで撮っていた気軽さがiPhoneになり、その感覚をカメラでも再現したかった。写真が「立派な」ものにならないように。個人的な記憶を軽やかに記録するために。

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どうして写真だったんだろう。時折そう思うことがある。「たまたま、写真だった」実は、そう思ってる。絵は描けないし、踊れないし、たまたま出合った写真という道具がぴったり来ただけ。今ではそこに文章を書くというのも寄り添っている。アウトプットはもう、何でもいいと思っている。肩書きは写真家だけど、そこにも、こだわりは強くない。撮りたいだけ。書きたいだけ、やりたいだけ。その純度を常に保つことができれば、方法はもう、なんでもいいと思っている。もう、なんでも。

でもきっと、写真はずっとわたしの軸にあるだろう。約束はしないけれど。そのくらいの自由さであと25年くらい、常に撮っていくことになったらすごくいいなって思ってる。

わたしはこんなふうに世界を見ている。みんなはどう?そんな行為が、今でも続いていること。それはとても幸運で、写真の神さまなんて存在があるのなら、こころから、感謝している。これからも、どうぞよろしくお願いします。カリフォルニアで始まったことだからなんとなく、西の方を眺めて、そんなふうに祈ってる。

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