サッカーボールのある風景 #写真家放談 |近藤篤
フォトグラファーにはおおむね二通りのタイプがある。
子供の頃からそうなることに憧れていた人か、あるいは人生の流れでたまたまそうなってしまった人か。
僕の場合はあきらかに後者だった。
1987年の6月だった。前年の春に大学を卒業した僕は、その夏メキシコで開催されたサッカーのワールドカップを一ヶ月ほど堪能し、中米をぶらぶらと旅した後、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスにたどり着いた。
最初はそれなりに楽しかったバックパッカーの旅だったが、半年以上何もやることがないとさすがに気ままな生活にも飽きてくる。あくびが出過ぎてあごの関節が外れそうなくらい退屈だったそんなある日、ブエノスアイレスで知り合った一人の日本人フォトグラファー(彼はパリ在住のスポーツフォトグラファーだった)に「写真でも撮ってみれば」と勧められた。
そっか、そういう解決策があったのか。たしかにファインダーを通して世界を見ればそこにはまた違った光景が広がっているかもしれないし、高そうなカメラを首からぶら下げていれば、それをきっかけに誰か(この場合は地元の可愛い女の子たちだ)と気軽に知り合えるかもしれない。
フォトグラファーになるには、まずカメラが必要だ。
僕はブエノスアイレスからニューヨークに飛ぶと、九番街にあるユダヤ人経営のカメラショップでカメラボディを2台と300mmの望遠レンズを含む数本のレンズ、最低限必要な機材を揃えた。(当時の南アメリカではカメラ機材がべらぼうに高くて、航空券代を差し引いてもまだ十分に向こうで買う方が安かった)
買ったばかりのニコンF3のシャッターを押し始めた時、僕が被写体に選んだのはサッカーだった。理由はいたってシンプルだ。僕は中学校の頃からサッカーが大好きだったし、放浪先を南米大陸にしたのも元々はそれが理由だった。
とりあえず地元のカメラマン協会に名前を登録して記者証をもらうと、僕は毎週末どこかのスタジアムまで出かけ、選手たちのプレー写真を撮り、選手たちのプレーに一喜一憂するサポーターたちの姿を撮った。
当たり前の話だが、昨日まで写真にまったく興味のなかったただのバックパッカーが、いきなり素晴らしい写真を撮れるわけはない。(ついでに言うと、当時はまだオートフォーカスなんてものはなく、自分の目と指で動きまわる選手にピントを合わせなきゃいけなかった)
その当時撮った写真はほとんど手元には残っていないけれど、少なくとも最初の一年、僕の撮る写真はとんでもなくひどい出来だった。(そしてそれなりに写真が上手くなるのはそこから20年ばかりかかることを、当時の自分はまだ知らない)
にもかかわらず、僕の撮る写真はそこそこ売れた。
サッカーだけではなく、他にもタンゴのダンサーとか、パタゴニアの風景とか、当時アルゼンチン在住の日本人カメラマンは僕以外にいないというただそれだけの理由で、僕の写真は誰かのニーズとマッチした。凶作の年にはたとえ虫食いだらけのキャベツでも買ってくれる人はいるわけだ。
もともとフォトグラファーを目指していなかったのだから、こういう写真を撮りたいとか、こういうフォトグラファーになりたいとか、そんな理想は一切なかった。ただ漫然と目の前で起こったことを写真に撮り、刹那的に日銭を稼ぐ、そんな日常がおよそ10年は続いただろうか。
転機が訪れたのは、1998年の冬だった。
その頃、僕はプライベートでものすごくきつい問題を抱えていた。なんとかその苦しい日常から逃げ出そうと、僕が脱出先に選んだのはパキスタンだった。最初はインドに行こうとしていたのだけれど、作家の村上龍さんに「インドなんて行っても仕方ないだろ、今行くならパキスタンだろ」と言われたのがきっかけだった。なぜインドなんか行っても仕方ないのかはわからなかったが、結果的にパキスタンに行ったのは正解だった。
イスラマバード、ラーワルピンディ、ペシャワール、チトラル、ギルギット、カリマバード、僕はバスとタクシーと小さな飛行機を乗り継ぎ、冬のパキスタンを旅して回った。
カラコルムハイウェイを走る長距離バスが崖から落ちそうになったり、乗っていたタクシーのボンネットが急に開いて前が見えなくなったり、町外れの検問の警官に拳銃を突きつけられたり。毎日必ず想像を超えたハプニングが起こったが、そういう一つ一つの出来事が僕の中に澱のように溜まっていた悲しさとか憤りとかを少しずつ取り去っていってくれた。
そんな旅の後半のある朝、中国との国境に程近いフンザの村の安ホテルで目を覚まし、部屋の窓を開けた時だった。麓の村からこちらに続く細い山道を一人の少年がボロボロになったサッカーボールを蹴りながら歩いてくる姿が見えた。僕はベッドサイドに置いてあったカメラを手にしてホテルを出ると、少年に声をかけ、彼と彼の友人と彼らのサッカーボールの写真を撮った。
一週間後、僕はパキスタンの旅を終え日本に帰国し、旅の記憶が記された30本ほどのフイルムを青山にあった現像所に出す。数日後、ラボに備え付けのライトボックスでフンザの少年たちの写真を見た瞬間、頭の中でなにかが小さな音を立てて弾け、僕はようやく写真を撮ることの意味(あるいは意義)のようなものを理解できた気がした。そしてそこからおよそ10年間にわたって、僕は取り憑かれたようにサッカーの風景、サッカーボールのある風景とその周りの風景を撮り続け、今もまだ撮り続けている。