手の記憶 #写真家放談 |川原和之
親しい人、好きな人の手を思い出せるだろうか?
親しい人の顔はしっかり覚えていても、その人の手を思い出すことは難しかったりする。
人の記憶というものは曖昧で、時間の経過とともに風化したり、装飾されたりと不完全なツールだ。その不完全さを写真という記録媒体が補ってくれることもあり、「写真は記憶装置」なんて表現されることもある。一枚の写真が、心の奥底に置いてあった感情へのドアをひらく鍵になってくれるのだ。
ここに綴る思い出は、僕が祖父母の写真を撮るなかで、「生きる」ことの意味を実感した、とある1日のエピソードだ。
そもそも、僕が写真を撮り始めたきっかけは祖父母だった。20代の頃、ふとしたことからカメラを買ってみたけれど、撮る対象が誰もいなかった僕は、祖父母にカメラを向け始めた。それが、写真にのめり込むきっかけになった。
僕は実家から離れて暮らしていたため、実家に帰るときにはカメラを片手に、畑仕事をする祖父母の姿を撮影して、次に行くときには現像した写真を祖父母に見せた。僕が撮る祖父母の写真は、食べているのか、口から吐き出しているのかわからないような写真や、口を開けて寝ている無防備な写真、孫に言われるまま変なポーズをとらされている写真ばかり。祖父母からは「あんたの写真は遺影に使えんもんばっかやな。こんな絵にもならん年寄りばっかり撮って、フィルムがもったいないわ」とよく言われた。
そんなたわいもないやりとりを繰り返しながら、歳月が流れた。しかし、その後、祖父が大病を患い、少しずつ日常が変化する。祖父の病気は癌で、それがわかったときにはすでに胃や肺に転移していた。抗がん剤治療や癌に侵された臓器を部分的に切除する手術を繰り返すなかで、祖父は見る見るうちに痩せていき、体力は落ち、次第に畑に立つこともできなくなった。無理をしながら畑へ行くものの、短い軽作業の後でも、息苦しそうな表情の祖父の姿を見ていると、僕は祖父の写真を撮れなくなっていった。
小さく、弱々しくなっていく祖父の背中を見ながら、僕が撮りたかった写真って何だったのか分からなくなっていた。そして、祖父の写真を撮る中で、僕の祖父へのイメージを一方的に押し付けてしまっていたことを強く恥じた。
祖父が病気を抱えて以降、家族全体がぎくしゃくしていた時期だったと思う。その中で、小さな娘だけが違っていた。当時まだ3歳だった娘は、分け隔てることなく、家族みんなに純真無垢な丸い瞳で笑顔を振り撒き、祖父もそれに応えるように、ひ孫と接しているときは苦しそうな顔をせずに、娘の前ではおどけながら元気そうな姿を見せた。
今思えば、きっと力を振り絞っていたと思う。
そんな祖父母と幼い娘のやりとりを見ているときに、僕が撮りたい写真が何なのかわかったような気がした。
幼かった頃、両親が共働きだったので、学校から帰るといつも祖父母と過ごしていた。
祖父は、朝早くから畑仕事に精を出し、祖母は夜遅くまで薄暗い明かりの下でミシンの内職をしていて、一日中休むことなく働いていた。
祖父母からはいつも土の匂いがして、僕はその匂いが好きだった。
僕が撮りたかった写真は、自分が幼き日に抱いていた当時の祖父母に対する感情を表現することだった。
その感情を言葉にしようとすると、大人になった今でもとても難しい。
「尊敬」 「敬慕」 「畏敬」 「敬愛」 、、、、
そのような敬意を表す言葉を頭の中で並べてみてもなぜかしっくりこない。
もっと純粋な「なんかカッコいいな」という、整然とした言葉にできないありのままの感情。
ファインダーの中の娘に幼かった頃の自分を投影することで、その感情を思い出すことができた。
その後、家族と近隣の親戚が駆け付け、祖父を看取った。叔母から「最後にじいちゃんの働き者の手を撮っておいてほしい」と言われたので、僕はカメラを構えた。「どうせ撮るならならかっこよく、ピースサインがいいよ」と叔母が言い出し、半ば強引に祖父の手でピースサインを作る。僕はその手にカメラを向けて、シャッターを切った。祖父は穏やかな顔で、84歳でその生涯を遂げた。死ぬ前のピースサインだった。
それからは両親が様々な手続きを行うために病院に残り、僕と祖母は体を休めるために、一度実家へ戻った。僕は、熱いシャワーを浴びたあと、家で祖父が使っていたベッドに寝転がった。ずっとパイプ椅子に座っていたせいもあり、体の節々が重だるい。天井を見上げながら祖父の匂いを感じ、数日前までこの場所で祖父が寝ていたことを何だか遠い昔のように感じる。
「大学生の頃は、朝方まで友人と飲んで帰ってくると、2階の自分の部屋で寝ずに、祖父母の寝室で寝ていたな」。そんなことを思い出しながら、当時は気にもとめなかった天井のシミを眺めつづけた。
眠りにつこうとする最中、窓の外からガサガサという音が聞こえてきた。気になったのでサンダルを履いて裏庭に出てみると、一本の柿の木の前で、祖母が先が二股に割れた長い棒を使いながら柿をとっていた。僕が少し苛立ちながら「いま、そんなことしなくてもいいやろ」と言うと、祖母は「そんなこと言ったって、じいちゃんが世話した柿をカラスに食べられるなんて、もったいないやろ」と言い返す。たしかに、その年の柿の木は今までみたこともないくらい、たわわに実をつけていた。祖母も、働き者の手なのだ。
そのあとの記憶は、ひどく曖昧だ。通夜から葬儀にかけて、不眠による疲労と、親戚一同が集まって大量の酒を飲んだせいもあって、僕はあまり写真を撮らなかった。ただ、多くの親戚が「じいちゃんは、和之がカメラマンの真似事して写真を撮ってくれることを嬉しそうにしていたよ」と教えてくれた。
葬儀からしばらく経ち、平穏な日常を取り戻した頃、両親が祖父の遺品を整理するということで、その前に祖父の身に着けていた物を写真に残したいと思い、実家へ行った日。
僕は、祖父の着ていた背広やよく被っていた麦わら帽子の写真を撮り、両親と祖母は必要なものと処分するものに仕分けていた。
そのとき、祖父が使っていた携帯電話を祖母が使うか、それとも解約するかという話を家族内でしていたのを娘が聞いていたのだろう。
帰りの車の中で、空を見上げながら突然こう言った。
「ひいじいちゃんはねぇ、お星さまになったんだよ。でも、携帯電話を忘れていっちゃった。」
僕と妻は思わず吹き出してしまった。そして、そのあとちょっとだけ泣いた。
茜色空に染まり始めた空には一番星が輝いていた。
祖父が亡くなったとき、まだ小さかった長女は小学生になり、その後生まれた次女は、祖父のことを知らない。長女も祖父がお星さまになったことも、携帯電話を忘れていったことも今では覚えていない。
けれど、彼女たちが時折、祖父を思い出させてくれる。
夜、娘たちが寝静まったあと、彼女たちの寝顔を写真で撮ったことがある。幼い次女は穏やかな顔で寝ているが、あまりに動かないので息をしているのか少し心配になり、そっと顔を近づけると、小さな胸郭が上下にわずかに動くのを見て安堵した。穏やかな表情の寝顔を見ながら、シャッターの音で起こさないように1枚だけ写真を撮る。次女の小さな手をそっと握ると、ぎゅっと握り返してくれた。そのとき、僕は祖父母と過ごした病室の夜、そして、祖父の手を思い出す。
人の記憶は曖昧でいい加減。もしかしたら、祖父が寝ている祖母を見て微笑んだのだって、笑っていたように僕が記憶を作り変えているだけかもしれない。ただ、そんな記憶がいまの僕を支えてくれている。
目を閉じて祖父の姿を思い出す。太陽の強い日差しの下、長靴姿で畑に立って、こちらに笑顔を向けている。そして、その手は泥だらけのピースサインだ。