流れ着いた先で、しがみつく #写真家放談 |仁科 勝介

身のまわりの家族は写真に関わりがない。でも不思議と、中学校の野球部を引退してカメラを買った。部活はしんどかった。顧問の先生は「番長」と呼ばれていて怖かったし、チームメイトに一番野球が上手いけれど半グレ気味の同級生がいて、副キャプテンだったぼくは彼をまとめきれずに、まあボロボロに罵られて。そんな話をしたいのではない。ただ、話をぎゅっとまとめると、それでも最後まで続けたことが幸いして、ものすごくハッピーエンドで終わった。半グレの同級生ともようやく打ち解けて、試合の一喜一憂を味わって。それで野球への未練が全くなくなって、高校は別のことをしようと思った。それからカメラを買った。

仁科 勝介さんの作品

買ったのはNikonのD3100だ。お小遣い制じゃなくて、お年玉しかなかったけれど、数年貯めていたから案外買えた。カメラに興味が湧いたのは、うーん、野球の試合のときに、誰かのお父さんが高そうなカメラでパシャパシャと撮っていたり、体育祭や夏祭りなんかで見知らぬ大人がでっかいカメラを担ぎ、しかもドヤ顔で写真を撮っていたりして、それにちょっと嫉妬したから。という認識でいる。要はカッコよかったし、うらやましかった。ほかに何かをはじめようにも、もっときっかけがなかったし、ちいさな関心でカメラを始めたわけだった。

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高校で写真部に入ったときは、「俺は写真が上手いはずだ」と本気で信じていた。知識は無くて、テーマもなく身の回りの出来事を撮っていただけだけれど、知識がないと感性で撮っている気分になる。「ほら、背景がボケた、ナイス感性ッ」みたいな。

大学生でも写真部に入った。でもゆるい活動だし、具体的な知識もまだなかった。良いきっかけをもらったのは、インドネシアに大学1年生で行ったときだ。初めての海外、2週間の短期留学で、現地にイケメンのカメラマンがいた。彼は女性をいつも口説くばかりだったが、ぼくにはカメラを持っていたので興味を示してくれて、「ちょっとカメラを貸しな」と、ぼくのカメラで風景や人物を撮ってくれた。そのときだ。ぼくのカメラなのに、自分が撮っていたものと雰囲気が全く違う。驚いた。どんな手品だ? と思った。ぼくはこのとき初めてRAWというデータの存在を知ったのである。それから現像の知識が多少身についたことで、写真の仕上がりも良くなった。大学のあった広島は自然豊かな土地で、散歩するのがいつも楽しかった。ほぼ毎日撮っていた。

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そして、写真家になれた、いや、ならさせてもらったきっかが、市町村一周の旅である。1741ある自治体を、スーパーカブに乗って巡る計画だった。この旅に写真は欠かせないと思っていた。どの市町村でも必ず写真を撮ろう。きちんと巡った証拠にもなるし、ゆくゆくは、逆引き辞典のように全ての市町村が載った写真集を、自費でもいいからつくれたら夢のようだ、と胸が膨らんだ。このとき旅に持っていくレンズを、50mmの単焦点一本にした。どのレンズで旅をするのかは、すごく大事な気がして、熟考を重ねて。結果的にマクロプラナーというレンズを買った。50mmは狭いし、遠いし、使いづらい。でも、目の前にある景色をそのまま撮ることができた。いま旅をするなら違うレンズも持って行くけれど、市町村一周の旅は50mmのレンズだけで撮りきったことが、訓練となり原点になった。

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旅が終わって反響があった。自分自身は何も変わっていないはずなのに、急に周りの視線が変わって、評価ってなんだろうと思った。同時にブレずに何かを続けることも、やっぱり大切なのかもしれないと思えた。ただ、そのまま大学を卒業して、地元の写真館に就職した。旅をする前から誘っていただいていたからだ。このとき写真家とは名乗っていない。どちらかというと職場で求められる撮影の技術がなくて、怒られてばかりだった。鬱っぽくもなった。でも、勤めながらも『ふるさとの手帖』を出版させてもらう話をいただいていて、準備にとりかかっていた。仕事が終わって、原稿を書いて、写真を選んで、休日もひたすら原稿を書いて、それが3か月休みなく続いた。今なら書籍をつくるとはそういうものだ、と思えるけれど、あのときは何もわからないなりに、よく集中できていた。やっぱり、夢でもあったし、写真集に何かを託そうとしていた気がする。

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2020年の8月、無事に出版できた。すべて学生のときに撮っていた写真。いわばアマチュア。でも、これ以上嬉しいことはなかった。本をつくる大変さと、世の中の本の素晴らしさを痛感した。そして、出版した翌月の9月に、ほぼ日さんの渋谷PARCOにあるリアルスペースで、個展の話をもらった。もちろん是非! ただ、「ぼくは仕事で地元にいるので、行けないかもしれません」と保険もかけた。事実、就職して半年足らずの立場で、東京で個展があるので休みます、なんて怖くて言えなかった。

悶々とした日々を送っていたとき、ふたつのきっかけをいただいた。ひとつは著名な写真家さんが東京から会いに来てくれたこと。お酒を飲みながら、「絶対に展示に行かないと後悔するよ」と言われた。その通りだと思えた。でも、ならば仕事を辞めるしかない。そして仕事を辞めてからのイメージが湧かなくて、最後は「アシスタントをさせてもらえませんか?」と言って、やんわり断られたりもした。もうひとつは8月末の誕生日に、尊敬している方にメッセージで「ゆっくり急ごう」と言われた。一瞬わからなかったけれど、あれ、ちょっと待て‥‥ゆっくり、急げ‥‥。焦ってはいけない。でも、君は君の選択をしているか? そう言われた気がした。

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こういうこともあって、写真館を辞めようと思った。辞めるとき、どれだけ格好悪くてもいいから、父親に同行してもらった。一人だとむずかしいとわかっていたから。揉めたし、東京でお前が食べていけるのか? と言われて、いけますなんて言えなかった。でも、辞めないと次には進めない。そうして勤めて5か月で辞めさせてもらった。筋は完全には通っていないし、自己嫌悪にもなる。でも、そうするしかなかった。

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9月、仕事を辞めて東京の個展に行った。人生で初めて渋谷PARCOを見上げて、ここで展示をするのかと想像した瞬間に武者震いした。無職だったので、堂々と全日の在廊だった。そこでもらったご縁が、いまの仕事にも大きくつながっている。そして展示のときは、「写真家」と名乗るほかなかった。だからぼくは、写真家になったのではなく、ならさせてもらった。という感覚がある。あれから上京して2年経つ。いろんな人に助けてもらって、細々としながらも、生きている。そして、それはとてもありがたく、とても楽しい。

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上京して不安もあったが、自分のスタンスを貫くことしかできない。ぼくは広告の写真を撮れないし、ファッションも撮れない。テーマは旅や日常をコツコツとおさめる、身近な場所にある。でも、ぼくはそうやって写真家にならさせてもらった。だから、同じように撮り続けるのだ。まだまだ駆け出しなのだから、技術の話や、写真の話や、そういうことを言えるような立場には、全くない。写真の歴史を勉強して、いろんな写真集を見て、本を読んで、雑誌を見て、ほかにも知らない世界のあらゆる表現を出来るだけたくさん浴びて、野良の立場であることに、責任を持つしかない。流れ着いた先で、しがみつく。それが、自分が写真家と名乗っていることへの、約束事。写真家と言いつつも、生き方そのものと向き合っている。