旅と写真の螺旋階段 #写真家放談 |片渕ゆり

もう30年も人間をやっているというのに、服がうまく選べない。メイクも、髪型も。自分に何が似合うのかも、よくわからない。ゆっくりと、だけど確実に時代は変わっていくものだから、「好きにしたらいいよ」と優しいアドバイスをもらうこともある。ありがたいと思いつつ、自分の中の「好き」がわからなくて、きらびやかなアパレルショップの前でいつも足がすくんでしまう。「誰がなんと言おうとこれが好き」と言えるスタイルがわからないがゆえに、うまく選べない。

日々Twitter上で繰り広げられる論争を見ていても、やっぱりわからなくなってしまう。どちらの言い分を見ても、どこかで「一理あるかもしれん」と思ってしまう。だから、「自分も何か言いたい」という思いに駆られても、結局は下書きに放り込んでしまう。いくじなしなのだ。

ただ、そんな私にも「これは好きだ」と思える何かに出会うことがある。

とくに旅先で、アンテナは敏感になる。どこか違う世界へ繋がっていそうな細い路地や、雨に煙る古都の街並みや、何もかも許してくれそうな優しい午後の木漏れ日。そういうものを見ると、反射的に「好きだ!」と思う。

髪や服やメイクや意見は、誰かの目に触れるものだから、つねに視線を気にしてしまう(このへん克服してもっと自分から楽しめるようになりたいなと思っているけれども、それはまた別の話)。

そういう意味で、私にとって写真は楽だ。私の目と景色のあいだだけで、世界が完結できる。ファインダー越しに景色を見ているあいだは、目の前の光景と私とのサシの関係だ。もしも仮にファインダーが誰かにリアルタイムで共有されたりなんかしたら、途端に自分は写真が撮れなくなるだろう。

「キミが好きだと言うかわりに、シャッターを押した。」という名コピーがあるように、写真を撮るという行為は、私的な「好き」の表現になりうる。

私が愛用しているカメラと出会ったのは、もう3年も前のこと。FUJIFILMのX-T3のやわらかな映りに惚れ込んだ。それ以来、旅するときはいつもこの子と一緒だ。懐かしいフィルムカメラのような見た目と、軽いのに頑丈なボディ。 “正しさ” よりも、そのときの感情をすくい上げてくれるような写真。

ひとくちに写真と言っても、1人1台スマホがある時代なのだし、人によって意味はそれぞれだろう。ただ、私にとっては、レンズの向こうにある景色や人やものを、肯定する行為なのだ。誰がなんと言おうと、目の前の景色が良いと思った。美しいと思った。映えとか見栄とかそんなのほっぽり出して、私は好き。

たとえばそれが道端のゴミだったとしても。道ゆく人が目もくれないような地味なものや、美的観点なんてまるきり無視して作られたものだったとしても。写真はそれを「好きだ」と思うことを許してくれる。

「写真ばかり撮る」という行為は、ときに揶揄される。写真ばっかり撮っていたら、ちゃんと記憶できないよというアドバイスを目にすることもある。そのアドバイスが正しいときもあるだろう。でも、自分には当てはまらないなと思う。

なぜなら一度撮った写真は、その後何度でも記憶を蘇らせてくれるから。Lightroomのコレクションに溜まったお気に入りの旅写真をスクロールしながら、高校生のころ使ってた英単語帳みたいだな、と思うことがある。ロマンのない例えかもしれないけれど、事実だからしょうがない。

一度しか見ていないページのことはすぐに忘れてしまうけど、幾度も幾度も眺めたページはだんだん記憶に定着していく。写真も同じ。旅先で撮った写真を見返すたび、脳の回路が形成されていく。もし写真を撮っていなかったら、教会のステンドグラス越しに落ちる影の色がどんなだったかとか、誰もいない冬の海がきらめいていたこととか、きっともう忘れてしまっていただろう。

写真を撮ったあと、レタッチしている時間に至っては、頭の中がまるごと写真の中へ入り込んでいる。シャッターを切った瞬間に感じていた音や匂いまでもが、まざまざと蘇ってくる。時間も場所も飛び越えて、あの瞬間へ連れ戻してくれる。

写真の好きなところをもう一つ挙げるとするなら、「目」を変えてくれるところだと思う。以前、ベテランの写真家の方にユニークな練習方法を教わった。毎日目にしている通勤路を、スマホで撮影すること。「撮るものなんてない」と思っている場所でも、作品と呼べる写真を生み出す。そうしていくうちに、目が鍛えられていくのだと。

実際にやってみて、最初は全然撮れなかった。けれど、何日か続けていくうち、突然ぱっと開けるような感覚を覚えた瞬間があった。見慣れたオフィス街に並ぶビルの垂直なラインが、キャンバスに描かれた直線のように見えるようになったのだ。

案外私たちは、目の前の景色を見てないのかもしれない。更地になっていたあの場所も、シャッターが降りているあのお店も、もともとどんな建物だったのか、なんのお店だったのか思い出せないなんてこともよくあるし。

「写真を撮りたい」という思いを抱えながら歩くから、撮りたい景色に出会えるようになる。撮りたい瞬間を見つけるから、シャッターを切る。撮りたいものは増え、私は飽きずにシャッターを切り続ける。一度始まればその循環は、エッシャーの描く螺旋階段みたいにいつまでも続いていく。私は喜んで、階段を登り続けるんだ。