想いの強さ。 #写真家放談 |石橋純

石橋純さんの作品

皆さんは写真を撮る際にどんなことを考えて撮っているでしょうか。例えばモデルさんの綺麗な角度を撮ろう、この雄大な景色のスケール感を崩さずに収めよう、一瞬で変わる状況を逃さないようにシャッターを切ろうなど、撮る被写体によって考えることは人それぞれだと思います。

私自身はというと、どんな状況でもどんな被写体だったとしても撮影時に何かを考えることはあまりありません。ですが、感覚的には写真を撮っているその場の時間や音、温度や匂いまでを切り取ることを意識しています。

石橋純さんの作品

温度や匂いまでを切り取るって、普通に考えたらよくわからないことを言っていますよね。でもこれは極寒の雪景色を撮るとか、真夏の炎天下で冷たいスイカを撮るなど、単純に気温や食べ物の匂いの話ではなく、人や自然が持つ感情・存在としての温度や匂いです。

例えば人が椅子から立とうと思った時には、そこに何かの理由があります。床に物が落ちたから拾う、体が疲れたから体勢を変える、食事が済んだから次の場所に向かうなど様々です。さらにその理由の前には行動に繋がる感情があり、その感情からなる体の動きや流れる時間(とき)を切り取ることが写真に余韻となって現れます。

また、無意識の表情が見せる感情の残像や、街中で歩く人々の足の角度や歩幅からどんな目的で行動しているのかなど…… 感情や行動の名残を温度や匂いとして写真に残すことにより、見る側が感じる想像力の幅を広げます。

写真は動画と違い、被写体が動くこともなく、曲が雰囲気を盛り上げてくれるわけでもありません。そこに写っているものが全てであり、そこから何を感じ取るのかどのような物語をイメージするのかは受け手に委ねられます。だからこそ、受け手の感性や感情を導き出すのも撮り手の役割だと考えています。

石橋純さんの作品

世界観の作り方

皆さんは写真や映画などの作品を見ていて、「この人の世界観好きだなあ」と思ったことはないでしょうか? 私自身も様々なアーティストの世界観に惹かれた覚えがあります。ですが、『自分の世界観を確立すること』これはなかなか容易なことではありません。

そもそも世界観とはなんでしょう? 写真を含め表現をする芸術分野において、世界観というものは必要不可欠な要素の一つだと思っています。しかし、独りよがりな世界観は時に自己陶酔や自惚れに陥りやすく、周囲に理解されないこともあります。独自的でありながら、他者に受け入れられる世界観。この文言にどこか矛盾を感じながらも納得がいってしまうところも、世界観という曖昧な意味を持つ言葉ならではなのかもしれません。

私は写真家として活動する傍ら、ブラジルの伝統芸能カポエイラを長年教えています。そのカポエイラの偉人の言葉で「A capoeira ȇ tudo o que a boca come カポエイラは口で食べられるもの全てだ」という言葉があります。自分が食べたもの、消化できるもの、受け入れられるもの全てがカポエイラになるという意味です。これは写真にも同じことが言えると捉えています。日々生きていく中で自分が出会ったモノに対して何を感じ受け入れ、自分の考えと共に咀嚼しそれを糧にしていくのか。そういった日々の「たべもの」が自分の感性を形成し世界観となっていくのではないでしょうか。

石橋純さんの作品

世界観からなる美意識

先日『DUNE/砂の惑星』という映画を見たのですが、あっという間にその雰囲気に引き込まれました。鑑賞途中で『スターウォーズ』と『風の谷のナウシカ』にどこか似てるなと思わせる描写があり、よくよく調べると原作はその2つの映画よりも前に発表されたらしく、むしろその2つの映画が『DUNE/砂の惑星』に似ていると言ったほうが良いのか、はたまた原作から今回の映画を作るにあたって製作陣が2つの映画を意識したのかは知る由もありません。ですが、この3つに共通するものもまた圧倒的なパワーを持つ世界観です。

これら映画から紐解けるのは、周囲が気付かないほど散りばめられた細部までのこだわりや美意識であったり、緻密に練られたストーリー性など、様々な要素の積み重ねが人を引き込む世界観となる、ということだと考えています。

石橋純さんの作品

わたし自身が持つ世界観や美意識は彼らには遠く及ばないものの、写真を始めた頃からテーマとして持っている『現実の中の非現実』が自分の指針となっています。目に見えるものと見えないもの、冷たさの中にある暖かさ、静けさの中にある躍動感、そして光と影など、これら相反するものが混同することによって生まれてくる矛盾やバランス感に美しさを感じながら、写真へと落とし込んでいます。

アートディレクターの石岡瑛子さんがおっしゃった「感情をデザインできるか」という言葉はまさしくそれであり、感情という目に見えないものをデザインという目に見える形にして、相反するものを作品として共存させるのです。

石岡さんの展示を見に行った際、彼女は既に他界されていましたが、その作品に残された力強いエネルギーに長い時間触れ、感性を揺さぶられたことにより大きな疲労感に包まれたことを覚えています。

石橋純さんの作品

想いの強さ

ここで言う想いの強さとは単なる根性論ではありません。人の想いの強さとはその場で強く思うものではなく、日々の中で積み重なるものだと思います。物言わぬ作品の圧倒的なエネルギーに言葉を詰まらせられる。言葉を添えること自体が無意味になってしまうような作品には、必ずといっていいほど作者の強い想いが込められています。それはある種の信仰心であったり哲学や思想です。信仰心や哲学や思想というと難しいものを思い浮かべるかもしれませんが、簡単に言えばこだわりや信念です。こだわりや信念があるからこそ、人は考え、言葉にし、行動します。そしてそれら言動が習慣づくことにより、その人自身が持つ独自の世界観となっていくのです。

世界観が無くても単に写真を撮ることはできますが、作品に温度や匂いと命を吹き込むには世界観や想いの強さが必要なのではないでしょうか。しかし、その世界観は無理に作り上げるものではなく、自然に出来上がっていくものだと考えます。作品に独自の世界観や強い思いがある人々は、世界観を作ろう、強い想いを込めようなど少しばかりも考えていないでしょう。彼らにとっては日々生活していることがそれらに繋がっているだけなのです。

石橋純さんの作品

日々生きていく中で、あなたはどんな「たべもの」を摂っていますか?