非言語の声のちから #写真家放談 |齋藤陽道
齋藤陽道 さいとうはるみち
1983年、東京都生まれ。写真家。都立石神井ろう学校卒業。2020年から熊本県在住。2010年、写真新世紀優秀賞(佐内正史選)。2013年、ワタリウム美術館にて新鋭写真家として異例の大型個展を開催。2014年、日本写真協会新人賞受賞。写真集に『感動』、続編の『感動、』(赤々舎)。著書に『育児まんが日記 せかいはことば』(ナナロク社)、『異なり記念日』(医学書院・シリーズケアをひらく、第73回毎日出版文化賞企画部門受賞)、『声めぐり』(晶文社)、『日本国憲法』(港の人)がある。
Twitter:@saitoharumichi
こんにちは。齋藤陽道といいます。38歳、写真家です。写真の仕事の他にも、文章を書いたり、漫画にイラストも描いています。2020年に、拠点を東京から熊本へと移しました。
ぼくは聞こえません。幼い頃は、補聴器をつけて生活をしていました。中学校までは聴者の学校に通っていたけれど、口話でのコミュニケーションは相当なハードルでした。
ノイズ混じりの音を聞き分けながらの会話は、ぼくにとっては困難なことでした。自然なコミュニケーションができなくなるにつれ、自分の心に限界を感じるようになりました。このままだと、残酷な未来しか思い描けなかったので、高校からはろう学校に通うことにしました。そこでぼくは手話に出会います。目で見ることばの手話に魅入られ、それを何かの形に残したいと思うようになりました。絵や文章など、いろんな表現方法を試すなかでぼくにもっとも合っていたのが写真でした。
ろう学校のみんなを撮っていくうち、もっと専門的な撮影技術を習得したいという思いがふつふつと湧いてきました。そうして興味のおもむくまま独学で勉強してみたら、写真の世界の奥深さを実感するようになりました。ものすごくおもしろそう!と思った。
でも、そのときは「写真を仕事にしよう」なんて思ってなかったですね。東京生まれ、東京育ちだったけど、せっかくだから元々憧れのあった大阪に行こうと思ったんです。筒井康隆、町田康、中島らもが好きでしたねえ。20年間住み続けた東京に飽きてしまっていたし、写真を学ぶのはどこでもできると思ったから。
でもいざ大阪の写真の学校に問い合わせてみたら、ほとんどのところから「聞こえないならダメ」って断られたんです。その中で、ビジュアルアーツ専門学校だけは、当時の校長の百々俊二先生が「授業の音声の保証はできないけど、見て学ぶっていうのはできるんじゃないか、本人がそれでいいなら」と言ってくださったので入学できました。
ろう学校の専攻科を卒業したあとは3年間ぐらい、サラリーマンをして200万くらい貯金がありました。それをもって大阪に引っ越して、学費もそこから。でもそれでも足りないから、奨学金を受けたり、昼夜もバイトしてたんですよね。写真の勉強をいつやってたかちょっと思い出せないくらい。
バイトは焼き鳥屋だったんですが、ある日、バイトリーダーから面と向かってろう者に対する差別用語を浴びせられました。ゆっくり発音して口の動きでぼくにわかるように。でも、そのときぼくは、怒るよりもまず、ずっと何を言っているのかわからなかったリーダーの「話がわかってうれしい」とまっさきに感じてしまったんです。人権をふみつける屈辱的な行為であり、ブチ切れるべき場面なのに、うれしいととっさに感じてしまったことで、自分のきもちに混乱してしまいました。怒ることもできず、ニヤニヤあいまいな笑みをうかべてやりすごしました。そんな自分の心の動きに「孤独が極まっているな」と感じましたね。
この体験が元になって、自分のことよりも、ろう者の「孤独」というものを考えるようになりました。ぼくが20歳ぐらいの頃から…、そう、ちょうど20年くらい前から、ネットが普及してきて、インターネットというツールを通じて、いろんな人とフラットにやり取りができるようになってきました。すごくうれしかったんですよね。いろんな人とメールして、出会って、撮影していました。ぼくが補聴器を外したのも20歳の頃だったな。
いろんな人と会いたいと思えば会えるという状況と、バイトでの差別の体験を通して「ろう者の孤独」というものを考え直したんです。すると「今、いろんな人と出会えているけど、これってろう者の歴史において、あり得なかったことだ」ということに気づきました。
そうした考えをもとに、いろんな人と出会っては、日の丸構図で被写体をどまんなかにおいた写真を撮りためていきました。
それまでは、広告写真のような、パッとみてカッコいい写真を撮らなきゃいけないと思っていたんですが、聴者のように撮る必要はないんだなと気づいてからは、素朴な劇的さというようなものを大事にするようになりました。いろんな人と出会うという喜びは、だれとも話そうと思えば話せる聴者からすれば、あまりにもありふれているものだろうけど、ろう者というからだをそこに通すと、それはとたんに素朴な劇的さに変化するなと思ったんです。
そうして撮影した写真をまとめたブックを赤々舎に持って行くと、代表の姫野希美さんが「本にしよう」とすぐさまその場で提案してくださいました。タイトルをどうしようかと考えたとき、当時は2011年3月11日の東日本大震災もあって、人間としての素朴な喜びから始めたい、という思いや、ろう者の孤独、そして今、人と出会えていることの喜び…。そんな数々のエッセンスから「感動」とつけました。でも、今でも自分でも居心地悪い言葉なので、ずっと考え続けています。
写真をやるうえで、「感動」という言葉は危ういですね。安直で単純すぎるし。色々と誤解を受けるだろうなと。でも、その愚直な真剣な、バカっぽさが、あのときのぼくにとってものすごく痺れるものでもあって、いいな~と思って。
ただ、2011年に出した1冊だけで終わってしまうと、誤解されたままで終わってしまうから、必ず10年後くらいに続編を出すぞ、と決めていました。結果的に2019年に続編「感動、」が出せたことで「感動」という言葉がより多面的な見方できるようになったかなと思います。また10年後くらいには「感動。」を出して、締めくくりたいなと思ってます。ん、2030年には50歳近いのか。うへえ。どうなるのかな。生きているといいな。
あっ、そうそう、専門学校は中退したんですよ。そうですねえ…、あのとき卒業まで半年という頃だったかな。「後期の学費、払うのもったいないなあ」と思って辞めました。後期にもなると、学校の授業はほとんどなくて、就職やアシスタントに有利となるような自分の作品を作る時期で。就職とかアシスタントは僕にはできないと思っていたので、早々に見切りをつけて新潟の雪山ロッジへ半年間、泊まり込みで作品を撮りに行きました。
そこで暇つぶしに撮っていた、タイヤと車の写真が写真新世紀で佳作を取って「おお!」と希望を見出して。ロッジから戻ったあと、1年間、撮ったものをブックにまとめて、また新世紀に出したらそれが優秀賞になって、赤々舎から写真集として出すことができて…。そうして、写真の道を本格的に歩むことになりました。背水の陣と言ったら大袈裟だけど、学校を中退して、さて困った!無職だ!写真をやるしかない!という気概が持てたのは確かなので、それがあったから今に繋がっているとも思います。
僕がシャッターを切っているときは何も音は聞こえてないです。音は聞こえてないけど、音以上に信じているものがありますね。非言語の声。耳に入って、鼓膜を震わせて、脳みそに伝わることでわかる「音」は、ぼくにとってはそれほど大事なものでもなくて。音なんかよりも、見つめ合うとか、隣り合うとか、同じ方角をじっと見るとか、一緒に歩くとか…。そういう行為をともにしているうちに、言葉はひとつもかわしてないのに何かが通じ合うものがありますね。非言語のうちに交わされる声というものが在る。
そうした非言語の声のちからを信じて撮影している、というのは他の写真家との大きな違いかなと思います。
音声が優位のこの社会で写真家としてやっていくにあたって、色々、音声で話しかけながら撮影するとか、そういうことが僕はできないから。沈黙の中で交わされている激しいもの、そういうものを僕は信じないといけなかった。手話がわかる人にはもちろん手話で届けるけど、そうじゃない人には必要最小限のことを筆談とかでちょっと伝えて、「あとは自由に、なんでもいいです、どんな動きでもどんな表情でも、僕が良いように掬い上げます」というスタンスですね。
でもこれはワンパターンな撮影になりやすくって、めちゃくちゃ大変。だから、いろんな写真が撮れるように、勉強はずっとしてます。今日も写真集を1冊買ったところです。写真集を見て「僕もこんな写真が撮りたい!」と悔しがるようなタイプではないですねえ。良くも悪くも、内容をしっかりと覚えることができない。見て、感じて、すぐ忘れる。でも、自分の中に何かが残ったという実感がある。それをたくさん積み重ねることは毎日意識しています。
もし写真をやっていなかったら? うーん、ボンクラサラリーマンでアル中になっていたんじゃないかな…。でもほんとに、かなり危うい。会話ができない寂しさで呑んでしまっていただろうから。だから、まあ、寂しくならないように、サラリーマンじゃなければ、人と会う仕事をしていたかもと想像します。介護職かな。ま、わかんないです。
写真に救われていますね、つくづく。写真をやっていなかったら、「非言語の声」を信じることもできなかったし、この非言語の声というものを信じられたからこそ、文章や漫画へとつなげていくこともできて、仕事の幅が広がった。コミュニケーションというのは、ただ言葉をやりとりするだけのことではないんですよね。その言葉ひとつの裏には、広大な海のように広がっている非言語の声があって、それがコミュニケーションを難しくもさせるけど、人を本当に救ってもくれる。コミュニケーションて、めんどくさくて、面白いですね。
けど、僕は孤独から解放されることはないですねえ。音声社会で生きていく以上、ろう者についてまわる宿命なので。だからこそ、「この孤独を踏まえたうえでたちあらわれる感動をいかに作品にできるか」ということをずっと考えることができます。
ちょっと臭い言葉になってしまったけど…。やるしかないですね。