始まりの装置|前田エマ #写真家放談
PROFILE
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前田 エマ
1992年神奈川県生まれ。東京造形大学卒業。モデル、写真、ペインティング、ラジオパーソナリティ、キュレーションや勉強会の企画など、活動は多岐にわたり、エッセイやコラムの執筆も行っている。連載中のものに、オズマガジン「とりとめのない、日々のこと。」、みんなのミシマガジン「過去の学生」、ARToVILLA「前田エマの“アンニョン”韓国アート」、HanakoWEB「前田エマの秘密の韓国」がある。著書に小説集『動物になる日』(ちいさいミシマ社)がある。
@emma_maeda学校へ行けなくなって出会ったもの
高校生の頃、学校へ行くのがなぜだかとても辛かったとき、私は一日中ベッドの中にいた。
朝が来るのが嫌だった。陽が暮れはじめ、夜になると安心した。何もしなかった一日が、やっと終わってくれることが、ほんとうにありがたかった。
自分が、まるでゴミのように思えた。みんなが学校へ行ったり、仕事をしたりしている時間、私はただ、息を吸って吐いて、ごはんを食べて排泄して、淡々とそれを繰り返しているだけだった。
今ならわかる。人の存在価値なんて、ない。何をしていようが、していまいが、人の価値なんて、そんなものは、そもそもない。あったとしても、そんなこと、他人に決められてたまるか。自分が自分を謳歌していられることが、私にとっての幸福だ。しかし、そう思うにはまだ幼かったのかもしれない。
ベッドの中で、私は雑誌を穴が空くほど真剣にていねいに全力で読んでいた。雑誌が、すべての世界の扉だった。音楽も映画も、ファッションもアートも、人も本も、何もかもを雑誌から知った。
“カメラ女子”という言葉も、そこから知ったような気がする。かわいい女性芸能人たちが、カメラを首にぶら下げていた。私はまんまと、その戦略に引っかかった。
私の世界を変えたオモチャみたいなカメラ
自由が丘のポパイカメラにフィルムカメラを買いに行った。素敵なモデルさんがコラボしていたいちばん欲しかったカメラはお金がなくて買えなくて、代わりにいちばん安い、紙パックのジュースの形をしたオモチャみたいなカメラを買った。
ベッドにいる時間は少なくなり、その代わりにカメラを持って散歩するようになった。ただひたすら歩いて、写真を撮るだけ。学校には行っていないのだから、人様から見たらベッドの中にいるだけの日々と、そこまで変わらないかもしれない。しかし、カメラを持って外を歩くことは、私の世界をぐるんと変えた。
路地に一筋の光が射しているだけで、心がうれしい。ゴミを覆うネットが、奇妙な形で放置されているだけで、なんだかたのしい。世界が、きらきらし始めた。
時間や見え方を変えてくれる装置
そんなこんなで美術大学へ入学し、3年生になった時、オーストリアのウィーンに留学した。
ドイツ語は挨拶程度しかわからず、英語も日常会話がどうにかできるレベル。自分の作品の話を深くしたり、適当な雑談を気軽にはできない。だからまるで言葉から逃げるかのように、学校では朝から晩まで絵を描き、それ以外の時間はカメラを持って、ひたすら外を歩いた。
それは高校時代のあの日々を追体験しているような、不思議な時間だった。言葉のない世界で、自分自身と永遠に会話をしているような。
美大で絵を勉強していたのにも関わらず、私はスケッチが苦手で、スケッチの代わりに写真を撮っているようなところがあった。スケッチよりは写真の方が、まだ少し上手にできる気がしたが、しかしこれが自分の表現だとは思えなかった。
カメラを持って外を歩くこと。その写真を見返すこと。それは私にとって、人生のご褒美で喜びだ。カメラは、この世界に存在する時間や物事の見え方を変えてくれるとっておきの装置だ。しかし私にとっては、それ以上でも以下でもなかった。
そんなある日、友人が日本から本を数冊送ってくれた。そこには向田邦子と石井好子のエッセイがあった。読んでいるうちに、留学生活の中で心の中に言葉がどんどん積み重なっていたことに気づいた。私も、言葉を書いてみよう。
いつだってどこか見ることができない世界がある
あれから9年が過ぎた。私は韓国・ソウルに留学中だ。
言葉を書くことが仕事となった今、写真を撮る量はうんと減った。それでも、たまにフィルムカメラを持ち歩き、シャッターを切る。先日、東京に帰国した時に現像し見返すと、胸がぎゅうと唸った。
カメラを持って歩くことは、私の原点なのだろう。カメラは自分自身を謳歌するための、とっておきの装置なのだ。
こちらに来てすぐの頃、ある先生が私に言った。
「エマさんは今、韓国で、まだ半分しか世界を見ることができない。言葉がわからないから、見えない世界が半分ある。その世界はいつか無くなってしまうものだから、ちゃんと書き留めておくといいですね」
その言葉の意味が、とてもよくわかる。しかし、もしかしたら私はどこにいてもいつでも、少し世界を見れていない部分があるような気がする。それは決してマイナスな意味ではなく、何かを自分の目で必死に見ようとする、もがきに似たものかもしれない。そして、いつだってどこか見ることができない世界があるということを、最初に教えてくれたのは、カメラだったかもしれないなと、思ったりする。