自分と向き合う、ということ #写真家放談 |枝優花
「作品をみると変わってるなって思ってたんですけど、会ってみたら案外普通で安心しました」
この仕事を始めてから、初対面の方からこのセリフを数えきれないほど言われてきた。心配させて申し訳ない。不安になったよね。でも普通だから安心してほしい。こちとら社会適合してるから破天荒なことも無鉄砲な発言もしないし、きちんとクライアントの都合も意図も汲み取って仕事する。だって仕事ってそういうことじゃん。
世間の監督イメージとは、尖っている変人で気が強い感じかもしれない。しかもこの業界は本当に想像を絶するような変人だらけで、現場は猛獣使いにならないといけない(すごく面白いし楽しい)。その中で生きていると本当に自分は普通の人間だなと思う。本当に普通。普通。はあ、ふつうなんだ…。
作品とは作ったその人間の本質を映し出す。私は、特に自分の内面を削って削って作るタイプだから顕著に出ていると思う。自分でも把握しきれていない自分が出ている。どんな自分か? それはうまく説明できないけれど、まあ作品を観てもらえたらわかると思う。随分昔、学生時代の作品を観た是枝監督から「君は、何か人間に対して強い不信感があるのか?」と尋ねられ。脚本家の野島伸司には「お前はどんな人生送ってんだ。大丈夫か」と言われ。これまでの作品を見てくれた強い孤独を抱えた人達からは「監督は私のことをわかってくれています」「枝さんの写真は愛情もあるけど、寂しさがあります」という言葉をもらって。
このように周りの言葉たちから分析すると、私が作っている作品は「人間不信」「孤独」「不安」を感じさせるものらしい。しかし私はこれまで反抗期もなく、ぐれた経験もなく、突出した才能もなく、四年制大学を出た、本当に普通の人間だったので、どれに対しても納得のいくうまい返しができなかった。
それに、これまで寂しいという気持ちや強い孤独を感じたこともなかった。だから何か皆を裏切っているような気持ちになった。長年そこに悩んでいた。だって私自身は普通なのに、作るものは普通とかけ離れてしまう。もしかしたら潜在的に「変人に思われたい自分」がいて、自己演出をして、世間を騙しているのではないか。とんでもない人間なのかもしれない。邪だ。なぜ自分は作るものたちがそうなってしまうのか、全然わからなかった。そもそも、なぜ私はものを作りたいと思うのか。写真を撮りたいと思うのだろうか。それもわからなかった。
そして、私にはもうひとつ悩みがあった。誰かを特別に愛することができない、ということだ。特定の人間を特別扱いすることができなかった。だから身の周りにいる全員に平等の愛を持って接する。「お前は出家でもしてんのか」とよく言われたし、これまでの恋人には「本当に自分のことが好きなのか?」と疑われ、時に泣かれたこともあった。私もわからないんだよ、と途方に暮れていた。ちゃんと好きなのに伝わらない。どうしたらそれができるのか、何度も練習したけど、結局いつもうまくいかなかったし、常に誰かを傷つけていたと思う。
しかし、監督業やカメラマンという仕事において、この特徴は大いに役立った。何せ技術面においては何にもできないくせに、沢山の優秀な人間たちに自分の脳内を具現化してもらわなければならないのだ。そのためには愛情に溢れた、人たらしでなければならない。エコ贔屓なしの全愛情を全スタッフたちに与え続ける。私は幸いエコ贔屓ができない人間だったので、これが苦ではなかった。カメラマンとしては、ほんの一瞬に自分の最大限の愛情を注ぎ込む。永続的ではなく、かつ一方的に。これが私には心地よかった。 …だけどこの愛は、本物なのだろうか。
さあ、一体何の話をしているの?となってきたね。そうなんだ。この仕事は、自分とは一体何者なのかということに、何度も向き合うことなのだ。自分を削って作るからね。だけど、そんな私は自分が一体どんな人間なのかわからず、さらには作品と現実の自分のギャップに悩んでいた。作るたびに知らない自分が現れ、その度に怖くて仕方がなかった。常に自分にナイフを向け「承認欲求のある邪な自分」の可能性を疑い、もしもそれを察したら罰した。だせえからそんなのやめろよなって。
そしてついに悩みすぎて、パーソナリティや人間の思考の成り立ちについて、心理学の本を読み漁った。単純にそれは面白かった。人間とは、生まれ持った性質もあるが、思考や言動の根源は幼い頃の環境が大きく影響していると。そして生きていく過程で負った様々なトラウマや心の傷によって変化していく。それは自分達が認識できないような些細なことでも。世界中の人たちのレポートや生い立ちを読んだ。壮絶な家庭環境や人間関係。自分とは縁遠いものたちをどこか他人事のように読んでいた。
しかしあるときハッとした。何とは言わないが、あるパーソナリティ障害の特徴を読んでいたら、これは自分ではないかと思い当たったのだ。するとこれまで押し込めていた様々な心の傷つきのパンドラの箱が開いてしまった。もう忘れていた、なかったことにしていた孤独、寂しさ、苦しさ全てが溢れ出た。誰にも理解されなかった時間、拒絶され続けたこと、機嫌を取らなければその場に存在できず、自分の価値を見出せなかったこと、それら全てを身体は覚えていて、いまだに不機嫌な人間や大きな声を出す人が苦手なこと。愛される自信がないこと。相手に何かを与えないと愛される資格がないと思ってしまうこと。特別な愛情をもらうと、いつかなくなることを考え、怖くなり距離をとってしまうこと。本当は寂しくて仕方がなかったのだ。愛情が欲しくて仕方がなかった。だけどそれらを抱え生きていくことは、幼い自分にとってはあまりに過酷すぎた。
だから普通になろうとした。限りなく普通でいることが、私の生きる術だった。幸い周りは騙されてくれたし、それどころか自分のことすら騙せていた。何十年も。嗚呼、自分を理解するということは、なんと困難なことなのだろうか。自分の心の傷つきに気づくまでにこんなにも時間がかかってしまった。痛みを何度も無視し続け、ナイフで沢山切り裂いてしまった。きっと周りの人間も傷つけてしまっていた。
本を閉じ、しばらく放心した。簡単に言えば28年間積み上げてきたアイデンティティが崩壊したのだ。社会に適合した自分、普通の自分。「これが自分だ」と信じてきたものは何ひとつ無くなった。そんな朦朧とした状態で、自分の過去作を見返した。驚いた。そこには全て映っていた。なかったことにしていた寂しさも痛みも孤独も。無意識で描いていた。きっと写真を撮るのも、たった一瞬でも自分が誰かを愛せている実感や喜びがあったからだ。寂しい自分を必死に救っていたんだ。シャッターを切った瞬間だけ、相手と愛で繋がれている気がして、嬉しかったんだ。本当はこれをずっと求めていたんだ。
そうかあ。ずっと心はわかっていたのだ。脳みそよ、君は使い物にならんな。なんだよ、それ。変だ。はあ。これは本当につい最近の話なので、私はまだ生まれたばかりの子鹿みたいな状態だ。何せ28年間が無くなっちゃったからさ、今は心のなかにいた無視し続けてしまった幼い自分の面倒を見るので一杯いっぱいだったりする。作家とはこうやって自分を何度も何度も見つめ、「ああでもないこうでもない」を繰り返し、作品を作っていく仕事なのだろうね。ああ苦しい。終わりが見えない。なんだよ畜生。でもこの仕事をしていてよかったよ。こんな寂しくて欠落した自分を描くことが、自分及び誰かの救いになるのだから。そんな恵まれた環境、ないでしょ。もう少し頑張ってみようかな、この仕事。そう思った。