目の前の出来事を純粋に記録するなかで生まれるもの #写真家放談 |相澤義和

PHOTOGRAPHER PROFILE

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相澤 義和

1971年、東京都東久留米市生まれ。1996年、四谷スタジオ(現・スタジオD21)入社、その後2000年に相澤義和写真事務所を設立し、フリーランスとして独立。2019年には初写真集『愛情観察』、2020年4月には2作目となる写真集『愛の輪郭』を発行。2022年4月には、初写真集の続編となる通算3作目の写真集『愛情観察NEO』を発表した。

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どうもみなさま初めまして。

私、写真家の相澤義和と申します。
どうぞよろしくお願いします。

さて今回、編集部の方から「『愛』や『女性』をテーマに作品(写真)を撮るようになった理由、そこに至るまでのご自身のエピソードや心境の変化・思考などをぜひお聞きできますと嬉しいです。」と丁寧なメッセージをいただきました。私如きが非常に僭越ではありますが、今回はこちらについてお話しさせていただければと思います。

写真家・相澤義和の作品

まず私が日頃いわゆる「作品撮り」として最も頻繁にカメラを向けているのは花や植物です。年齢を重ねるとなかなか集中力の維持が難しいのですが、この時だけは若い頃とさほど変わらない集中力で臨むことが出来て非常に充実できる時間となります。

そしてその次に、というかそれこそ日常的に、普段起こる身の回りの出来事をスナップで記録しています。この記録は、普段の生活を可能な限り脚色や演出をせずに目の前の出来事を純粋に記録することを目標のひとつにしていて、この中に恋人や友人女性が被写体となっている写真が含まれると思います。

写真家・相澤義和の作品
写真家・相澤義和の作品

撮影は意識的に「生活のついで」という感覚でおこなうようにしています。できるならば自分の感情の動きからシャッターを切るまでの時間に理性的なものが生まれる前にできるだけ反射的に撮りたい。自分の意識から外れたところに存在し得る普遍性や写真的な美しさを見つけ出したいと思っています。なので必然的に写真の枚数は増えていきます。

写真家の森山大道さんが「量に勝る質はない」というような意味合いのことをおっしゃってましたが、それは私も同意見で、膨大な量の中に輝き得る質が存在していることを前提として、普段生活を送りながらとにかく感情が動いたら撮る、ということを繰り返すことで量を重ねています。

新しい体験や読書などで新たな価値基準や考え方が芽生えたりすると、写真がおのずと変わっていきます。逆に言うとインプットが少ないと変化の感じられない写真になります。食べたものの栄養バランスで体調や気分が変わっていくのと同じような意味合いで、撮る写真の全体像にゆるやかに変化が起こり、それらを総合的に提示することで撮影者のオリジナリティとして見てもらえるようになると思います。

だからこそ物事の考え方を凝り固めてしまわぬようにして、自分の状態や感情を幅広く反映できるようにしているつもりなのですが、なかなかその辺りが難しく、まだまだそんなに簡単にはいかないです。

写真家・相澤義和の作品

もちろん簡単にできる人もいると思いますが、私はいつも固定観念に縛られがちになってしまいます。これが嫌なんですよね。それこそ毎日同じ経験──例えば、毎日同じ時間に同じ電車に乗っている──をしても、前日とは違う思考がいくらでも生まれるはずですし、成長の遅いサボテンでも昨日と違う表情を見つけ出せるはずです。諸行は無常ですべてのものがわずかながらに変化していている中で、何を見つけ出せるか、常に新しい解釈をできるようになっていきたいと常日頃思っています。

写真家・相澤義和の作品

肝心の「なぜ女性を撮るのか」ですが、これは先ほども書いたように、私が常日頃撮影の際に心がけている感情の変化の中でシャッターを切るという写真行為をしていると、当たり前ですが無感情では1枚も写真が撮れません。

女性と接していると、自分だけでは思いもしないような感情にさせてくれる機会がとても多くあります。そういった感情の動きは私自身の人間としての幅を拡げてくれます。

私は30代のある時期に恋に落ちた女性を撮影していました。構図や光や場所など、しっかりと画を作り込んで撮るほうが仕事に繋がりやすいので、当時の恋人の姿もそういう「私のイメージを乗せた写真」で撮っていたのですが、それらの写真をいくら上手に写しても、その恋人はいまいち喜んでくれませんでした。何度撮っても反応は同じで、なんでだろうなと思っていたんですよね。けっこうしっかりと綺麗に撮っていたのに。

そしてある日、私の家で料理をつくっていた当時の恋人の後ろ姿を、あまり使わないコンパクトデジカメでただなんとなく写したことがあって、その写真を見た時はものすごく喜んでくれたんです。

写真家・相澤義和の作品

その姿を見て、いい写真とは私のイメージを乗せた写真ではなく、反射的に目の前の出来事を純粋に記録するなかで生まれるものなのかもしれないと、なんとなく気付くことができました。外側だけを取り繕った写真ではなにも感じてもらえない。ちゃんと心で写さないといけないということを結果的に教えてもらったのです。

そういったこともあって、被写体の存在と時間と感情をストレートに記録できれば、それらの写真群は何かしらの力みたいなものを持って奥行きのある物語となる可能性を信じるようになりましたし、感情や直感に基づく撮影から新しい美しさや瞬間を見つけ出すことができたときの喜びはかけがえのないものなので、それに出会いたくて、日々、目の前の出来事を純粋に記録する撮り方をしています。

日常的に写真を撮っている人なら、ファインダーを覗かずにシャッターボタンを押してたまたま撮れた写真や、写真の概念がまだない子どもが間違えてカメラのシャッターを切ってしまったり、写真に興味のない人が意図せず撮ったりした写真が、嫉妬するほどすごくいい写真だったりする経験があると思います。

写真家・相澤義和の作品

偶然撮れたような、いわば自分の意思がほぼ加わっていないけれどものすごくいい写真の中に、私なりの写真の本質と美しさがあるだろうと思っているところがありまして。それは、常になんらかの偶然性を欲しているんだと思います。

私にとっては間違いなく写真は読み物です。

写真から読み取れるものは限りなく多くあって、1枚の写真に写っているその人、または撮った人、これからその写真を目にする人などその写真に関わる人たちの過去や未来、感情や経験を私なりに感じ取る、もしくは想像して読み上げる行為は常にするようにします。

写真家・相澤義和の作品

しかし私は自分自身の経験した事実やせいぜい想像できる範囲内での解釈しかできませんから、少なくとも自分が撮った写真において、解釈の可能性を閉ざしたくないし、できれば常に新しい視点で読みたいと思っているのですが、これは写真行為だけではなく、人間関係や自分自身の人生でもそうしていきたいなと思っています。

例えば相手の人格を自分の固定観念に当てはめずに、可能な限り幅広い解釈で読み取ることは、ある意味でその人の抱える愛情の形が表出した姿になるのではないかと思っているので、是非そういう人間になれるよう、残りの人生をなんとか生きていこうと考えております。無理っぽいですけど。

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